猪名のにし東

【飯島正明氏プロフィール】 横浜国立大学漢文専攻、老子と道教を研究。元光風台小学校・高山小学校教諭。 高山右近とその郷土、能勢氏の研究、北摂の民話、能勢物語、高代寺日記、多田源氏、吉川と炭、炭焼き長者、役行者、北摂のキリシタン、古代の直道、古城山本成寺等執筆。元箕面市立郷土資料館館長。指導主事。現在、箕面史学会世話人。著書に『箕面の説話・道教と北摂』*はろーあさひ掲載の民話【猪名の西東】は長年研究されてこられた飯島正明氏のご厚意により紹介させて頂いています。

「猪名のにし東」  執筆にあたって 箕面史学会会長 飯島正明
 文化財保護法では、「国民の基礎的な生活文化の特色を示すもの 第6項 口頭伝承・伝説・昔話」とあり、民話もここに位置づけられます。
 古い民話・伝承が現代まで残され、語り継がれて来たことを考えますと、その作者はすでに存在せず、その時代、その時代に民衆が力点を変えながらも、自分達の郷土史の中に、言外の共感を内在しあい、その存在価値を認めつつ、その生命を失うことなく語り伝えてきたのです。民話・伝承はやはり、郷土史をふまえて解釈し、再話し、現代なお求められる力点を加え、再構築して、我々がその生命を吹き込まなければ、その生命を失い、過去のものとなってしまうでしょう。こうして用意された民話・伝承を次世代に与えることによって、郷土史や文化の厚み、祖先、目に見えない存在、自然、風土が一体となって、身近に感じられ、そこからの理解がなされていくのではないでしょうか。
 文字化されず、口頭伝承され、郷土に育まれてきた民話・伝承には、土くささや、風習・信仰・願望・娯楽・自然への畏敬の念・更に教育的、道徳的内容すら加わっていました。また、病人、人身御供、のろい、障害者、精神異常者、荒唐無稽・反道徳的行為まで語られました。それが、現代、我々が耳にし、あるいは活字に見る民話・伝承では何度も検定を加えたように消え、ほとんどが骨と皮だけといわれ、また、全国不特定の対象に語られ、あたりさわりのない内容です。 
 語り継がれてきた民話・伝承は、子供たちだけのためにあったのではありません。そして、同じ郷土に生きる我々にアイデンティティを育て、共感を共有しあって、その場その場にあわせ、絆を感じあいながら、フレキシブルに語られるものだったのです。原稿があるわけではなかったのです。その話術を心得た語り手が多数いたのです。それは寝る時、外で遊べない日、人が集まった日、余興であったり、祭りの余話など、その信頼された語り手から語り継がれてきたのです。地域の継承者として、こうした地域文化を育む手法を持つ民話の再生を、皆さんと共に望みます。
そこで、地域を知る共有教材として、絆として、私は現代の民話を「アイデンティティを育む地域の文化財として総合的に再話していくもの」と提言し、実行しております。民話は、万人がそれぞれ力点を用意して語ってきたものなのです。地域の御賛同者が増え、若い人たちにも、この試みが利潤抜きで広がることを期待しています。
 ここに、「猪名のにし東」と題しまして、再話するための取材やネタを含めてご紹介していきます。まずは、「天狗」を1年間、語らせて頂きますが、お付き合い下さい。
*劇の写真は昭和55年高山分校学芸会で源右衛門が中下浦君、天狗が大下浦君で今は立派なおじさんです。吉川の越智さんも見に来て頂きました。

箕面寺秘密縁起ものがたり

 むかしむかし、634年といいますから、今から1386年も前の10月7日に、父を渡都麿(とつまろ)として役(えん)氏の家に男の子が生まれました。なんと、母の白専女(しらたうめ)が元旦に夢の中で金剛杵(こんごうしょ)が雲に乗って来て口に入ったのです。するとその日に子どもを授かりました。母は毎日お経をとなえておりました。 大和国葛上郡茅原(ちはら)郷に生まれた役小角(えんのおづぬ)は、「おぎゃー」と元気な産声をあげてからというもの、一声もしゃべることがなく、母親は喜び半分と嘆き半分でもありました。
 ところが、五歳になって突然「我は生まれる前から誓いを立て、この世のすべての人々を、平等に、昔からの願いがあるように、満足させて、未来の人々まで教化しましょう…」と言う意味の、母が毎日となえておりましたお経の言葉をしゃべったのです。これには母も感動して泣いてしまわれました。その後、九歳まで、普通の生活を過ごし、母の手伝い、言いつけを守り、助けておりました。
 ある日、母に「わが父はいずこにおられるのでしょうか。」とかわいい声で尋ねるのでした。母は「そなたの父は、既に亡くなった化者です。そなたを産んだとき、おへそから光明が発して、その光が和歌山の牟婁(むろ)郡備の里にまで届いたと聞いています。その地が父の生を受けた所なのでしょうか。」と答えると、小さな子はこれを聞いて、父への恋慕の思いが止まりませんでした。そこへ一度訪ねて行きたいと思うのでした。孝養心の非常に強い子でした。
 十歳になりますと、金剛山に入って山で寝泊まりして修行を始め、家に戻れば学業に打込み、その間でも、母親への孝行を尽くされました。
 十四歳では、都の大寺が所蔵する経典を読み終え、竜樹菩薩の説いた「諸法皆無」「空」についても知るようになりました。そして、十七歳になると、叔父の僧願慶の元で出家の意を固め、難行苦行に入ったのです。
さて、それからの小角は家を出て、葛城の金剛山窟という岩屋で夜露をしのいで、学問も完成し、力をつけました。やがてその姿は、藤の皮をはいで衣とし、まるで中国の仙人のように松葉を食べることを覚えて命をつなぎ、いつしかその姿は、髪はぼうぼう、爪はのび、出会った者たちは役優婆塞(うばそく)行者と呼び尊敬しました。
 この時、孔雀明王・不動明王等まだ我が国に知られていない呪持(呪文を記憶すること)を身につけられたのです。この孔雀明王の呪というのは、毒を除くばかりか、神通力を得て飛行自在・鬼神を縛れるほどの呪経です。そのころ、役行者ただ一人しか身につけた者はいませんでした。
 こうして二十五歳まで修行を続けられ、仏の境地に達する日が近くなりました。日々修行する金剛山の頂から、はるか戌亥の方を眺めていますと、摂津国の北あたりの深山から何やら五色の妙(たえ)なる雲がたなびいている様子が見えました。目出度い景色と思っていましたが、竜樹菩薩を妙雲如来とお呼びすることを思い出されて、それは驚きに変わり、行者は、「あの山こそがこの日頃、成就達成に至りたいと願う私めの至るべき地というのであれば、今すぐにでもこの金剛山の地を出て、そこに行ってとどまりたいものだ。」と思われ、思いを込めていつも持っている三鈷杵(こしょ)を投げてみました。するとどうでしょう、三鈷杵は空高くまい上がったかと思うと、その妙雲の方へと吸い寄せられるように飛び去ったのでした。 

 旅支度を整えられた役行者は、春になると葛城山を出られ、あの妙雲の地を尋ね、三鈷杵の行方を求めに行くことにしました。三月十七日箕面山の麓の坂本にやってきますと、それを待ち兼ねていたかのように、どこからか老翁(おう)が現れて会ったのです。行者は、さっそく、この山の現状や何か変わったことが最近なかったかなど、尋ねてみることにしました。すると、老翁は、行者のお姿をしげしげと見つめられ、「この山は、今を去る百年ほど昔に伝わりました古仏がおられまして、密かにそれと知る者は練行を積んでいるらしく、避名(ひめい)(名を知られることを避ける)の地でございます。なんでも大陸から竜が飛来いたしまして、お遊びになるとか。渡来人たちはそのように申しております。そのような秘窟もございますようで…。また、この山の奥には太古の昔より飛滝がございまして、どうやら最近その東の峯の松の上が光明を放ち、夜も明々と照らしていると聞きおります。そなた、この先の川の流れに沿って登り、そこを見に行かれるがよい。この山は私の領地でしてな。私は、この山に早く伽藍(がらん)を建立し、末法の世に、そなたの力でここに仏法を興してもらいたい。私が申すのも何ですが、当山は、古仏の霊験のすぐれた地として、天竺の仏の教えに合った霊地なのでございます。」と言い終わると、たちまち姿が見えなくなりました。行者は、ますます日頃求めている霊地への思いが強くなり、ふと、今の老翁は、この地を領された住吉大神があらわれなさったのであろうかと、手を合わせました。
 老翁に教えられたとおり、当山に登って行きました。谷の流れに従って進み、川を渡り、岩場を伝い進みますと、どこからか谷にサルの声が響き、また、尾根を越え、峰の角を通り行きますと、あちこち山鳥のさえずりが聞こえてきました。
 行者は、山の三つ指の鬼神や、怪しい姿が現れても、少しも恐れず、孔雀明王の呪をとなえながら、険しく危い所も通り過ぎ、ようやく大きな滝の下についたのでした。
 行者が滝の東を見ますと、高い峰があり、その青い岩が険しくそびえ出て、そこに緑の松が並んでいます。すると、どうでしょう。あの行者の金剛山から 投げられた三鈷杵が、松の上に引っかかって、夕べの暮れゆく中に霊光を放っているのを見つけられたのです。行者の喜びの涙はおさえきれず、胸がいっぱいになりました。あの老翁が告げ示された所がその通りなのでした。行者は、こここそが霊神が現れるに違いない地であることを確信されたのでした。
 行者は、この滝のもとに一千日山ごもりされました。決まった時間に行を始め、夜は仏に懺悔(ざんげ)され、三時に身を潔くして仏に奉られ、夜の五更(ごこう)に閼伽(あか)の水を汲みに秘窟(ひくつ)に入られ、ここを御壷(ごこ)と呼んでおられました。御峯の行道は欠かすことなく、それを日課とされました。
 さて、このようにして行者は、昼夜となく祈られ、お経を念じておられましたが、その一眠りの内に霊夢を感じられました。誰かの声で、「時は至れり。彼の御壷に入られよ。竜のすめる穴深き渕の底にあれば、汝の求める所の願いが必ずや成就(じょうじゅ)するであろう。」とあって、行者は、滝から落ちる水の響き、松風のざわめく声に驚いて、目が覚めました。
 一睡の夢に驚いた行者は、不思議な思いに、ますます祈りをあげましたが、さらに雑念が止まないので、その場を何度も何度もぐるぐると歩きまわりました。

 竜がいそうな御壷の穴の入口は狭く、その深い底がわかりません。流水はわき出てつきる時などないのでしょう。このような所はとうてい人の力でかなうものでありません。この上は、仏心にすがり願う他はないでしょう。そこで行者は、試そうと雨乞いをしてみますと、甘い雨がたちまち降るではありませんか。またその御壷にお礼まいりをして報告いたしますと、願い事はすぐかないました。祈る心に誠があれば、これに感じ応じること空しいということがないのだろうと思われました。すでに捨て身の行者は、自分の露のような命を惜しむこともなく、孔雀明王らの加護があると、心から誓って、行者の命のあるうちに出会えないものかと願を発されたのです。
 その年四月十七日、役行者はこの日、ついに御壷の水の底に入ることができました。その時、行者は心も精神も自分の身を制することが出来なくなり、体が何をしているのかさえ心に感じられなくなりました。
 気がつくと、そこは水底に至っているのでした。そこには水のない一本の道となっていました。
一里ほど行きますと、清らかで厳かで美しいお城の門前へと出ました。少したたずんでいますと耳に聞こえてくるのは城の中の人々の声でなく、伎楽(ぎがく)の音がします。行者はその音に心をひかれ、感激のあまり身の毛がよ立つほどでした。
そして、その門前にひざまづいて不動尊の呪文を唱え、城内の気配をうかがい、また他に来門するかもしれない客を待ちました。すると宮殿の小門に人の声がして、「梵語(ぼんご)でお経をされておられるのはどなたかな?」とあったので行者は、「日本国優婆塞(うばそく)行者なり。君はいかなる人でございましょうや。」と尋ねますと、「我は徳善大皇なり。」と答えてくれたので、「ここは一体どこでしょうか?」とまた、尋ねますと、「ここは南天竺の竜樹菩薩の竜宮でござる。」と申されるではありませんか。
 行者はここで、やっとわかったのです。金剛山からはるばるやって来たのは、あの五色の雲を拝見したからで、あの雲はあの御壷からもれ出ていたのであったかと。ここはぜひとも竜宮に入れてもらい、そこにあるという世界中の書物や経典を読み、その教えを受けるわけにはいかないものかと、「中へお参り申したいのですが、どのように致せばかなうのでしょうか。」と、ためらわずに申しますと、「しばし待たれよ。」とあり、すぐに書状を持って来て読み上げてくれたのです。「今そなたのために門のかんぬきを外して開くが、心に三密(仏の身口意の秘密)を念じられよ、また心より深く呪文を誦されよ。」とあり、言われた通りしますと、門の鈴が鳴りましたので、押しあけてみました。中にはなんと立派な大皇と十五人の金剛童子が取り囲んでおられ、それを手も顔も八つの荒神王が守っています。大皇は教えるように、「一心不乱に三業(ごう)(鬼がもつ業)のいましめに思いをめぐらせながら、我について来られよ。」と申されるのでした。

 そうしてやや一里ほどついてまいりますと、中門を入ってお堂の上へと来ました。行者はうやうやしく礼をされ、周囲を見る世界は、絵に見た浄土のすばらしさをはるかに越えるもので、地は瑠璃(るり)、樹は光を交えて輝き、金色の庭に仏法を説く波音のする池、四種の蓮の曼荼羅華(まんだらげ)は満開で、五つの法身(戒・定・慧・解脱・解脱知見)の香りで満ちています。玉で飾られた黄金の殿上は甍(いらか)が並び、のぼりやかさはひるがえり、その色は様々です。玉を連ねたすだれを上げ、垂れた網には露が光り、金のとびらからは何とも言えない香りが風に乗ってきます。伎楽や歌の声がして、あちらには天人や聖衆が会に集まっているようです。
 ようやく外陣をすぎますと、はるかに堂の中が見えて、香や花、燈明がほんのりと並んで見え、数々のお供えが並んでいます。堂内ごとに3mもの錫杖(しゃくじょう)が立てられ、時が来るたびに自然と音をシャクシャクと鳴らし、また堂の前ごとに吊られた、これも3mほどの金磬(きんけい)が自ら時刻を知らせてコーンコーンと音を響かせています。諸仏、諸菩薩それに天人、聖衆は満ちあふれ、竜樹菩薩を供養しています。世を守る善神も、世界の竜たちも激しく信仰を見せています。
 ついに行者は、中央の大宝宮殿の前に詣でることが出来ました。徳善大皇は十方を拝み、それから仏前の香水をとって行者の頂に注ぎ、なでられました。この水は、伝法の灌頂(かんちょう)に用いる門前の秘密の水です。そうして、秘密荘厳の内に竜樹菩薩を目の当たりにされ、秘密とされる灌頂がなされたのです。おそばに如意輪観音さまが仮りのお姿で大弁才天となられ、座っておられました。
 竜樹菩薩のご説明が始まり、「これから開こうとしている箕面の山々には、西は金剛界、東は胎蔵界のすべての真の仏たちが三部に一木一草小石に至るまで並んでおられる。その三峯の秘密の峯を開くがよい。また、末世の行者がもし疑いを抱くかもしれない。ここにそなたが灌頂を私から受けた証明として、この錫杖を与えよう。」と手渡されると…、あっという間に行者は錫杖を持ったまま、深い渕の底から浮かびあがっていました。それは余りにも短い間の事でした。

 すぐに同じ行をしている弟子の義学・義賢を招いて、このお話をされると、二人は涙あふれて、「ついにお叶いになられました。」と、一瞬にして目の前の世界が別のように見えるのでした。
 そこで、ここに仏教を興す力が涌いてきますと、まず仏を造ることのできる匠を呼ぼうとされましたが、行者は待ちきれず、滝の下にお姿を現しておられるそのままの不動明王をご覧になって、一刻みされる毎に三礼され、自ら彫刻にかかられたのでした。ようやくその形が出来てきますと、待ちきれないというのでしょうか、一人の童子がどこからか現れてきて、「私めも、ごいっしょにあのご尊像をお彫りしてもよろしいでしょうか。」と申し出ましたので、行者は若い匠(たくみ)が来てくれたものと思われ、許されますと、どうでしょう。そっくりな二つの尊像が出来たのでした。その後、滝下に不動堂が建立され、ここに二体が安置され、「互位(ごい)の御影(みかげ)」と呼ばれています。あの童子は、なんと、はるか遠いインドからアチャラナータが童子となって出現されたといいます。

 ■行者は、まず滝下の西の角をよくお調べになり、樹林を払い岩石をひき動かしなどされておられました。すると突然、八面八臂(ぴ)の忿怒(ふんぬ)の形相で、地の神が現れ出て、「この地はわしの地じゃ。ここに仏教を入れ、建て物を造るというのであれば、わしを敬え。わしを正しく供養せよ。そうするならば、その仏教伽藍を守り、人も法も昌えるよう、擁護してやろうではないか。」というので、行者は有り難く拝して、その通りにお供えをし、祠を設け、大荒神王とされ、丁寧に敬まわれたのです。これを荒神供の始めとされています。その後の伽藍興業には必ずなされるようになったのです。
 こうして行者が草堂を建立され、手づから等身の竜樹菩薩像と八臂弁才天像をお造りになられ、徳善大皇は薬師如来像とし、十五童子のうちの金剛童子を地蔵尊像として造立されたのです。堂内の艮(うしとら)の角には、宝倉を未来の用心のために造られました。

この年十月十七日、花を摘み供具にそなえ、閼伽(あか)の水を酌んで供えました。これは秘密の五更の水とされています。こうして、開眼供養がなされ、箕面寺が開かれたのであります。
 行者は、箕面寺の内外の結界を設けられました。外の結界として、東西南北の四隅の山際とされ、そこに昔から住む天魔・悪魔・悪鬼・悪童たちが人を損なおうとする心を導かれ、かえって当山を擁護するものたちとなりました。この山を敵としたり、住侶を悩ませるものは、いなくなりました。これを伽藍の結界とし、東は郡界の峯、南は平尾村の横尾根、西は松尾山の峯、北は天上ヶ岳への行道所を限りとされたのです。この中に仏法を守る善竜や善神などの族が住んでいて、八大天王(八天)が取り囲んで守っています。金胎両部の諸尊が並んでおられ、諸願に力を与えて下さるのです。一心に信心をするならば、権現(弁才天・如意輪観音のこと)の大悲によって、福の助けがますます満ちあふれるでしょう。
 役行者のこの結界によって、慈悲がこの世に下って及んで行き、そして人の道は弁才天のお誓いにあずかって、竜樹菩薩の恵みがあらわれるでしょう。行者はここから出ることはなく、滝の下にて一千日お籠りになったのでした。これを山ごもりの行儀としているのです。
 行者六十一歳の時のことです。金峯山(大峯山のこと)と金剛山との間に雨でも通える道を通そうとされ、諸国の神を召し集められ、石畳の道を渡そうとされました。神たちに昼夜休むことなく、人々が驚くほどの速さで造るように望まれました。しかし、神々は多くが夜しか、そのお姿らしき影をお見せしません。するとこの時、葛城一言主明神は行者に、「姿形がとても醜いので、夜のみ仕事をさせていただきたい。」と訴えました。行者は、「見られても何ともないではないか。昼もやらねば、神業とみなされない。みなと共に力を合わされよ。」と強く申されるのでした。これでは、「行者にまともに向かって勝てそうもない。何度も責め立てられても昼間などできそうにない。ここは、
妨げ乱すしかない。」と、このことで王宮に託宣(たくせん)したのです。明神がのり移った巫女(みこ)が、「役優婆塞が天皇の位を傾けようとする勢いを示している。」と口走ったので、王宮の人達は驚いてすぐに行者を捕えて縛るように命じました。けれども、追手がさし向いましたが、一向に行者を捕えることが出来ず、そこで、行者の母を召し捕えて牢屋につなぎました。明神のはかりごとはうまく進み、行者は母を救うために自首され、母のおられる牢屋近くに現れられて、呪をとなえているところを捕えられました。ただちに島送りにしようと協議されました。

 行者六十二歳二月十日のことでした。行者は伊豆大島へと母と共に流されました。大島では、昼にあっては命令に従って島にいて、母に孝養をつくされ、夜になると、富士の峯へと海を渡られて登る修行をされておられました。そのお命も露ほどになられ、心は平静ではなく、焦りと愁いの思いで天を仰がれることが多く、耐えておられました。
その間にも一言主明神は、この先を一層恐れ、後悔など少しもなく、重ねて巫女 に、「あの左遷した行者を早く殺害するがよい。
もし命あれば、必ず王法に過ちがおきるだろう。」とあり、神の讒言(ざんげん)(無実で罪に落とすこと)などあり得ないと、何の疑いもなく、重ねて命令が出され、使者が伊豆大島へ到着しました。

 行者六十八歳二月廿五日、遣使らが行者を召し出し処刑しようとしました。その時行者は、勅使(ちょくし)の前ですので、法や呪などは用いず、従順にひざまづいて頭を傾け、殺すように請われたのでした。
 ただその前に、確かめたいと思われ、自分の首を切り落とすことになっている殺刀で、肩や背中に三度ずつあててもらうように乞われました。そして、最後にその刀を見せてもらって舌でその刀を舐めさせてもらってから勅使に返されるように申され、勅使がそれを受け取ると、「神が誤られるはずがなく、その重ねての勅勘(ちょっかん)(天皇のお咎めで追放される)をこうむりました。実に口惜しき次第にござります。かくなる上は早く殺されよ。」と申されるのでした。勅使は、その刀を取ってふと、見れば、みるみる刀に何やら文字らしきものが浮かび出たではありませんか。だれも書いた者などいません。処刑役人に渡そうとしましたが、周りの者に「これは何なのか?」と尋ねますと、その中にこの文字を見知る者がいて、「富士明神の表わされた文です。」と申すので、神罰を恐れ驚いた勅使は騒ぎたてて、「しばし待て、余の一存ではかなわぬ。」と、刑を中止され、大急ぎで都へこの刀をお届けして、判断を仰ぐことにしました。
 天皇は、これをご覧になられ、ただちにその表文を読ませるために、博士を召されたのでした。それによれば、「天皇は慎しまれ、あがめなさい。これなるは凡人どころか、この世における賢き聖人なり。早く殺害の罪を免ざれて、すぐにも都城へ召しかえされるのがよろしい。尊ぶべし、重んじるべし。都に住まわせ修めさせるべき人なるぞ。」という意味の文字が連ねられていたのでした。こうして勅勘が解かれて、行者は都に迎えられることになりました。そして大変敬われ、他の僧たちとは比べられないほどでした。 

 やがて行者は、一言主の讒言(ざんげん)であったことをお知りになり、自らの潔白が何よりの真実、この国で、このように卑劣な讒言が、神によって今後末法の世に再びあってはならぬと決心されました。行者はたちまち讒言神への深い怨みを含まれ、たちまち呪(じゅ)力を放たれました。行者の持てる限りの呪の力で七度も呪を放たれました。「アン!遅し!大鬼王よ!今責めてよいぞ!その時は口から火を猛烈(もうれつ)に吐け!一言主明神を緊縛(きんばく)して参れ!鬼神も明神も姿を現せ!感涙(かんるい)と悲嘆(ひたん)と共に抑(おさ)え難(がた)し。」と行者は、不動明王のそれのように、口を閉ざされ、眼をやぶにらみされて、顔色を変えられて怒られたのでした。誠に天下に手本とすべき験者です。明神は弁解をしましたが、行者は、「どうして間違えようか。哀れなものぞ。今より明神は三熱に身は燃えてただれ、その肩を無くして悲しみ、指はちぢんで縛ろうにもなく、味わおうとすれど舌に味は無く、尾をたたこうにもすべなく、おののけども助ける者は誰もなく、耳は無く聞こえない蛇の姿となるのである。」と、強く敵対心を抱かれ、まったく慈悲の魂を捨てておられました。

 そして、何度もお誓いになって申されるには、「もし、において験力第一の聖者が出て、ここへ来ることがあれば、必ずこの縛りを解くであろう。しかし、もしも権者で慈悲の将来力をあまねく護っている聖人がいなければ、五十六億七千万年後の慈尊下生の時までこの縛りは解かれないであろう。」と、ついに、はるか暗い谷底へと大鬼王に命じられて、投げ入れられました。今も金剛山の東にあり、一言主谷と呼ばれている所がそれです。
 このように処置された行者は、左右の者に語られ、「これは、当面し忘れることのできない私的な怒りをいましめて報復したのではない。人道のが穏やかであることを願い、掟(おきて)としたいためには、この明神の心は、とにもかくにも不用であって、一を断ち切って、万を省みたのでござる。」とおっしゃられました。
 その谷底をよくうかがって見ますと、長さ約6m程の黒蛇が見え、大変衰えて、その姿はまるですすけた木の幹のようで、へつらい笑うようで、地に渦巻いて臥しており、もし雨の気配があれば、恨み声を放ち、生暖かい気を吹くかのようで、朝には強くなる熱風熱砂の苦悩に悲しんでいます。もしもこれを見た者には必ず凶事が起き、その声を聞いた者には必ず不祥事がありました。そんなわけですから、神に仕える人も明神を祀らないように慎み、まして世間の人もそうしました。こうして、あえて誰も逢わせないようにされたのでした。その時、行者がおっしゃるには、「見苦しいぞ。そなたは後になってうらむでないぞ。魂を育んで高くそびえようとも、神霊の力で何事もできない者には、このいさめがわからないだろう。苦しみがずっとと続いても、道を修めて得た力があれば、弥勒出現の竜華(りゅうげ)の会(え)の時には救われよう。まず、懺悔(ざんげ)して後によろこびがあるのだ。」と。
 702年、行者六十九歳の正月一日、行者は、鼻をすすがれて申されるには、「この日本のもとを離れて世を逃れようと思う。そのため、ことさらに箕面権現の御前に参詣したい。」と。そこで権現の前に来られて、磬(けい)をうち鳴らされ唐へ渡ろうとのぞまれました。その意志を丁寧に申され、「行者と
して日本と別れるのは嘆く程ではない、しかし、箕面権現との別れは名残惜しく、お慕いしてもしきれないほどであります。」と申されますと、突然、宝倉の中から徳善大皇の泣き叫ぶ声が聞こえてきました。徒弟衆は集まり、その涙を流す様子は雨の様でした。すると突然、宝倉の中から猛火が発生し、四面が昼間のようになりました。行者はすぐに三呪を満たされますと、火はたちまち消え、火災の損ないは全くありませんでした。

 この年六月七日、行者は、当山の乾の角の往生峯(現在の天上ヶ岳)より金の足駄を履かれ、金の杖を手に持たれて大唐へと飛び去ってしまわれたのでした。この時六十九歳のことです。
今、箕面寺は瀧安寺と呼んでいます。その創建は、実に658年10月17日から、今年で1362 年にもなる古刹(こさつ)です。

猪名のにし東 21世紀の民話その25「龍になった娘」

昔の庄屋さんの家にな、一人の娘さんがあったの。そんでその娘さんが、皆お昼寝する時分になったらその娘さんおらんようになってしまうのね。ほんで、暑い盛りにどこ行くんか尋ねても、どこへ行くとも言わんと出て行くんやね。それもこの頃に始まったことやないねんね。 二、三年も前からそれはその時分な、おらんようになんねんけど、お父さんもお母さんもだあれも知りはれへん。あんまりおかしいので、その娘さんの部屋をな、お母さんがのぞきはんねん。ほな、のぞきはったらな、体にウロコがついて,腋の下やら腰の方にウロコがいっぱいついとうねんと。ほんで、お母さんがびっくりしはってね。「あんた。そないな体にいつからなったんや。」言うたら、「こんな体になってしもたさかい、どっこいもお嫁にも行かれへんしするさかいに、えらい今まで大きしてもろた御恩は忘れへんけども、此の村におられんようになるから、出て行きます。」いうて、ほいで、夜の間にどっか行ってしまうんや。お母さんもまあ、「どこへ行ったか。どないして暮らしとるやろか。」いうて、いっつも案じてはってんね。 そしたらある人が、「あんたとこの娘はんは、箕面の方におるで。」いうて、そない言うねんて。「箕面の山で見た言うから、そのへんにおんねやろさかいに、行てきたらどないや。」いうて。 お母さんがいっぺん会いとうなって、箕面の滝のとこまでやとのことで行って、滝壷の方を向いて、その娘はんをいっしょうけんめに呼びはってんね。ほた、その人が家出した時とおんなじ着物きてほいで頭も同じ格好して現れんねんて。「わたしのことはあきらめてください。」いうて、言うたかと思たら、ものすごい大きな雷みたいな水しぶきが立って、その滝壷からずうっと龍になって、天に昇っていてまいはったて。 ―語り部大阪市坂田静子・光照寺の和尚さんから子供の時に聞く―【解説】現代忘れられてしまった龍と箕面の滝の話です。「神社記」には、箕面山の如意谷から如意珠が掘り出された時、弁才天女が白龍に乗って出現し、箕面の滝前に降りて白龍は石となったという。 箕面権現として弁才天が我が国に伝わる役行者以前から、箕面の滝には龍にまつわる話が伝わっていました。1300年の間に形を変えて現代に民話として語り伝えられています。(飯島)

猪名のにし東 21世紀の民話その19「青葉の笛」

 箕面の滝から五十町ほど山奥に進むと、道もなくなってさらに進んだ所に、白雲の昇る美山があって、その麓はマキやヒノキの原で、その山奥を目を凝らしてじっと見つめていますと、朽ちた木立の隙間に、かれこれ何年にもなろうかという、古いお寺がチラリと見えることがあります。その寺こそが神仙境に建っている仙人の住むお寺であります。 ここに、歳を取ることを忘れた童子姿のままの一人の仙人が、やがて天上からの迎えを待っていました。かれこれ150年になるといいます。この童子というのは、宇佐八幡の地で生まれましたが、五歳で相次いで父母をなくし、十一歳で法華経を授かって、これを毎日三部ずつ三年ほど読んでいましたが、わが身に絶望して、ただ、冥土で今も苦しんでおられる両親をお救い下さいと、日が暮れるのも忘れて法華経を読経していました。すると、普賢菩薩が化身となって八十歳ほどの老僧の姿で現れ、「わしについて来るもよし、来なずともよし。」というので、ここにいても、ついて行っても、何も変わらない、この老僧について行ってみようと思い、ついて行きました。僧は、そこから西へ西へと進み、摂津昆陽野から箕面の山に至り、さらにその奥へと入って、避名の山へと導きました。そして、ここに草庵を営み、畑を作り、その法華経の読経を続けるようにすすめたのでした。こうして、一人ここに住んでその修行をしていますと、やがて童子が読経を始めますと、天上から音楽とともに白雲に乗った天女たちが舞い降り、一木一草、小石に至るまですべてが仏となって唱和する声が谷中に響き渡るようになりました。このようにして過ごしていますと、何年たっても年を取らず、仙人となったのでした。
 この童子に、「いま、都に法華経の智者となった者が現れた。そなたは、その者の日ごろの願いを叶えてまいれ。」と、世尊様がおっしゃった。
 君に忠、親に孝、そして幼年からの法華経持経者を「法華経の智者」といいます。仁明天皇の頃、在原業平は法華経の智者といわれ、宮廷貴族としての教養豊かな教育を受けて育ち、芸能・歌道・宗教・弓馬・学問を一通り身に着け、仁明天皇に早く仕え、若くしてその勅願寺「不退寺」の開基にもなっています。(880年歿75歳)
 この二十歳のころの業平の前に、「あなたは今、法華経の智者になられました。日ごろの願いをお聞きいたしましょう。」と言って現れます。
 その現れ方は、いきなり業平の前に現れたのではありません。百鬼夜行するといわれる京の夜道に夜な夜な、笛吹き童子として、まず現れたのです。21世紀の箕面の民話として、再話致しましょう。
 謎の笛の音
 仁明天皇さまが世を治めておられた頃、帝は管弦の中でも特に笛がお好きでな、笛が聴きとうなると、業平はんをお呼びなさった。業平はんは笛の楽曲はすべて吹き尽くし、どのような曲でも楽譜なしで吹きこなしたんや。それで帝の覚えもめでたかった。
 そんなある夜、都の朱雀門近くで笛の音が聞こえ、むかし道行く笛の音に合わせて、朱雀門の上から鬼が笛を吹いたというけれど、それとはまったく違って、例えようのないほど美しい音色で、その美しい響きが澄み渡って遠くまでも伝わり、これを聞いた者が都中にいた。そんなことが毎夜続いた。たちまちその評判が笛のお好きな帝のお耳にも入ったんや。帝は、これは誰よりも笛の音を聞き分けられる業平はんにこっそり探させて、召し連れて来させようと思われた。業平はんを呼び出されて、特に許しを出され、そのためわざわざ宣旨も持たせなさった。これに逆らえる者はない。
 夜中に屋敷内や通りでも笛吹く者はあり、業平はんは早速その夜から広い都を聴き歩きはった。そして、朱雀門と云うことはなく、確かに毎夜どこからともなく、とびぬけて美しい音色の笛の音がする。せやけど、見つからへんので、帝に見つけ出すことはできませんと報告するんやが、ますます帝は聞きたくなるばかりで、重ねて褒美をとらすと宣旨に書き加えなさった。帝は、このことで業平はんと会われることが多くなり、業平はんが登れば大事な時でも中断されて、会われ、昨夜の曲は何であったかとか、それを吹いて聞かせよとか、どこで聞こえたかとか、その技量はいかほどかとか、お好きな笛の話題が続くのやった。

 9月10日余りのこと、月は隈なく、雁金の数まで見える夜やった。この夜も業平はんは笛の音を求めて、神泉苑のほとりまでやって来ますと、かすかにあの笛の音が聞こえてきましたんや。いつものように近づくことは出来るけど、いっこうにその笛吹く姿は見えない。
それでも業平はんは、この日は笛も持参で、たとい魔性変化の鬼であろうとも、帝の宣旨が懐に有る。帝のお召であるぞと伝えねば、御役目全うできないと、勇気を奮い起こして笛の音の聞こえるのに合わせて、自分も笛を吹き合わせてみた。今までよりも笛の音に近づくことができ、これはもしやと希望を持ったが、姿らしきもの影が見え、都の出口四塚辺りまで来ると、夜が白んできてその姿も笛の音もしなくなった。がっかりして、この事を帝に奏上するのやった。帝はその笛の音を聞いてみたくなるばかりで、良い方法も浮かばなかった。
 すると、それから間もない、大変夜更けに、この夜は特に都の家々も静まり、月が隈なく照らしている様は、更科や姥捨山、須磨明石の浦といった名所まで遠く見えるかと云う透明な月明かりがして、例の笛の音が大極殿の東の河原にしたかと思うと、帝のお部屋にもそれが届いてきた。いつもより少し趣深げで、百廿帖ある笛の秘事を尽くして聞こえてきたんや。帝をはじめ殿上人は寝奥の玉すだれの内で感涙を流さないものはいなかった。それでも笛吹く姿は見えなんだ。
 その翌日宮中ではこのうわさで持ちきりになり、こっそり探しておられた帝も、業平はんをお呼びになられて、公卿たちの多くおられる前で、改めてその者を捜し出すよう、お命じになられた。業平はんはそれからと云うもの、以前より必死になって、百鬼夜行するといわれる都の大路と云わず小路まで、毎夜尋ねること十日、廿日と続いた。
笛吹き童子
 今日も法華経を一部ずつ、お経をあげる日課の業平はんは、幼い時から法華経を信じられ、ふと、法華経を信じる者は必ず釈迦如来の御弟子となり、願いもかなえられるということが頭によぎり、なんとか、この願いをおかなえくださいと、祈念深くお経をあげられた。
 その夜のこと、いつものように笛のする方へとたどっておりますと、東寺から羅城門の方へと訪れ、笛の音がそこで休んでいる間に、業平はんはようやく追いつくことができたんや。こんなことは初めてや。そして、初めてその姿を見ることができたんや。
 十六、七歳であろうか、稚児姿でこの世にないほど気品があり、美しいこと限りなく、童顔で露を含み、柳のような髪を風になびかせ、姿も形も麗しくたおやかである。業平はんは、鬼神でも魔性変化でもないことは、笛の音にこめられた情感からある程度確信していましたが、月明かりに紅葉重ねの衣を唐装束の上にうちかけ、浅い沓を履いて、さらに西へと下る道を歩いていく。これを身を隠しつつ跡をつけたんや。
 鴨川と桂川と淀川の三川の合流して大江となる、淀の西にある水無瀬河原の東のほとりに、大きな古寺があり、そこへこの笛吹き童子が入っていった。永く人の住んだ跡のない苔の生える田道の寂しい所やった。童子がその荒れ果てた泉水ではあるけれど、花は季節を知って咲き乱れている中にたたずんでいる。その姿は普通の人間ではなく、絵にも筆にも尽くせない。どうしてこれ以上私の心を惑わせるのかと、恐ろしさを忘れ、これまでの思いを伝えようにも、言葉にも出ず、呆然として立ち尽くしていますと、童子が云うには、「おことが、ずっと都からわらわをつけて来られたことも、今のお気持ちもわらわにはすべてお見通しです。わらわは、おことが思っておられる通り、この世の常の者でございません。実は飛行も姿を隠すことも思いのまま。わらわに叶えてほしいことがござれば必ずおかなえいたしましょう。これも世尊様の思し召しでごさいます。」と、穏やかに語りかけられた。若い業平はんは、「みどもは、先の帝より孫に当たりその名を賜りし在原の五男業平と申します。幼きより帝にお仕え申し、今上陛下のいます内裏に夜昼となくお仕え致しております。帝のお覚え近頃篤く、中でもこのたび宣旨を賜り、都に夜な夜な聞こえる不思議の笛の音、この世のものと思えぬと仰せになられ、ぜひとも尋ねて参らせよと、選りにも選って、みどもに仰せ遣わされ、この上もなき名誉とあなた様を捜して今までありました。然るところ、実はみども、永年笛を愛して、我朝の数ある楽譜を吹きつくし、極めましたが、貴公の笛を知り、これまで一度もこのような有難き笛を聞いたことがなく、笛を合わせるたびに身どもの笛の腕が上がる心地して、恥ずかしながらもすっかり虜になってしまっておりました。」と言うと、童子はにっこりして、「一切経に数ある中で法華経こそは優れ、有難き経なり。されば諸経中の王。また、そなたは笛を極め、その覚えが帝に篤く、私のこの笛は、十六管弦中の王ともいうべき優れて深き音色なり。この二つ、その志を尽くして怠らない、みどもの思った通りのおことであった。ゆえにおことの願いをかなえ申すのです。」と、そこまで言われた業平はんは驚いて、「笛の一つはさておきまして、不思議なことを申されます。もう一つのみどもが幼きより法華経を深く信じ居りますこと、何ゆえ御存知なのでしょう。みどもは唐の書が読めるようになってより、13歳の歳から意味もわからないうちに法華経を誦じ始め、それより毎日の読誦は今も怠りません。さて、おことは、釈迦如来様の仮のお姿であられましょうか?」と問うと、童子は、「それほどの者ではござりませぬ。わらわは摂津国箕面山寺のさらに奥にて永年住む者にてございます。今、おことと言の葉を交わし、親しくなることができました。このうえは、明日の夜、この場所にて、必ず出会って、わらわの栖家へお連れ申しましょう。」と、深く約束されたのやった。
 月も次第に傾いて夜明けを告げる遠くの鐘が聞こえ、里々の鶏も何度か声が聞こえてきたので、童子は二枚の青葉の見える笛を取り出して、業平はんにも勧めはるので、業平はんも笛を取り出して、二人笛を合わせるように吹き、心の感傷の響きが伝わりあって、天人が今にも迎えに来るような趣やった。名残は惜しいけれど、明日の暮れぞと、何度も何度も約束して、童子は空へ飛び去った。業平はんはその姿が途中で見えなくなるまで見送って、直ちに内裏へと戻り、奏上されたのは言うまでもない。
箕面山へ
 業平はんは、翌日の宵の来るのを今か今かと待たれて、いつもより身づくろいに余念なく、帝からわざわざ良馬を馬寮より賜り、これに乗り、舎人を一人華やかに具してあの約束の寺へと急がれた。童子は先に待っておられ、白馬に一人の舎人のみ具して乗っておられた。見れば紺瑠璃色の唐装束に鬢つらをあげ、黄金の団扇を手に、その姿まことにゆゆしく、月の光に簪が輝き、人とは思えない全く天人の様で、目がくらむほどであった。並んだ業平はんも、平城天皇のお孫、本来なら皇子であるご容貌は立派で、芸能も、歌も、笛も世に並びなき貴公子や。童子に劣らないほどに見えた。この二人がつらって古寺を出られた。この姿を見た者があれば、誰であろうと、しばし見とれてその目を奪ったことやろう。
駒を並べ月影照らす名所をあちこち眺め、為奈の笹原を過ぎ行き、いよいよ箕面の山に分け入り、滝のほとりに着かれた。修行僧の小夜ふけても籠るあちこちから、ありがたい法華経不断の読経が響いてくる。さらに五十丁ほど奥へと誘われ、周りの峯々は巍々として岩ばかりとなり、馬は通えず、舎人をつけて馬をそこに留め置かれた。そこからは徒歩にて、どこに道があるのかわからない。雲居ははるかで、かすかに滝の音は聞こえてくるが、夜のしじまに鳥の声さえ無い。杣人がかけた板橋は苔むして板の隙間も見えない。童子の歩く足跡を踏み踏み業平はんは、ふと海の方を見れば、松原遠く白い真砂の広がるのが月明かりにうっすらと見えた。さらに進むと、白雲のたち昇る御山があり、ふもとは檜槇の原で、その山奥をじっと目を凝らしてみれば、何年にもなろうか、杉の木立の隙間から古びた寺が見えた。
 ようやくその寺に近づき、苔むした山門をおし開き、中に入ってみると、庭は粉雪のような砂に、四季の色をそれぞれ備えた草木が生い茂り、小川が引かれ、その水は清く、林の月に照らされた姿を映している。背後の山を見上げれば、峰の松が重なり合って吹く風に音を響かせている。童子は連子を開けて中に入り、業平はんを呼び入れなさった。
 中の様子を見れば、言葉にも心にも尽くせない。玉の床はあざやかで、玉の廉の内には瑠璃瑪瑙の嵌め込まれた美しい琵琶が立て置かれ、金箔銀箔の押された五段の棚には経論諸経が並べ置かれている。本朝の帝のお住居こそ並びなきことと思っていたのに、これはどういうことかと夢かと思うのやけど、夢でないことに、このお方はいかなるお方かと胸の内が騒いだのやった。ふと廊下を見ると、御膳を捧げ持った14、5歳の童が並んで見え、赤い唐装束に鬢つら結い、水晶の扇と瑠璃の盃を据え、黄金の銚子に甘露な酒を入れて業平はんの前に置き、続いて五色の唐装束に紫の着物を着た児が唐団扇の上に水晶の皿を載せ、皮のむかれた柑子梨を四つ盛ったのを業平はんの前に置いた。童子が勧めはるので、業平はんはさしうけ、一口飲んでみれば、甘露なのは勿論であったが、身がすっと軽くなり、気分が涼しくなって、今にも身が飛び立つように感じられた。
 童子が話されるには、「さてさて当所は、どのような所かとお思いでしょう。さぞご不審に思われておられるようですが、わらわが元より住んでおります所ではございません。わらわの生まれは宇佐八幡の御敷地にて、そこで5、6歳の頃父母に死に別れて心細く涙に沈んだ毎日を過ごしておりました。親の菩提を弔いたく、11歳の頃より法華経を受け授かりまして、三年ほど、毎日三部ずつ読んでおりました。14歳の春のことでした。八幡の森の松林で遊んでおりますと、急に父母とこんな春の鶯鳴く声やらをともに聞くことのできない我が身を思い、涕して絶望していました。そして、冥途にて苦しむ父母を救いたまえと法華経をお守り袋から取り出して日が暮れるのも忘れて読経しておりますと、年の頃80歳ほどの老僧が立ち寄られ、鳩の杖をつきつき、水晶の数珠を指で繰りながら近づいて来られ、あたりは一面異薫立ち込めて、声を懸けられたのです。『汝は法華経の智者じゃ。すぐに拙僧に従うならば、そのしるしがあるであろう。』と親切にいわれ、わらわは怪しいとは思いながら、素直に、どうせ一人。終の栖となろうとも構わぬと決心して、はるばる東へ東へとついて行きましたら、この避名の山に連れて来られたのです。その老僧と申しますのは、普賢菩薩の化身でございました。わらわは、法華経の読誦の力によって、このような不思議の仙人となったのです。こうして経た後に、天上の弥勒菩薩の住まわれる内院に生まれるのでしょう。わらわはこのように仙人となって、もう150年ほどになりますが、わらわの眷属も、屋敷とてもすでになく、以来何年歳を重ねても死ぬことがないのです。これらの童は多く居りますが、すべて身に添う影でございます。私が願えばこのように、叶わないことは何一つございません。」

神仙境
「大唐に伝わるお話に、周の時代の慈童仙人は、1000年の寿命を保たれたのも、光より早く天駆ける駿馬に乗られて天竺の釈迦より手に入れられた法華経普門品の二句を、その14歳の頃、お仕えしていた穆王より戴いて、御守りとし、?県山の彼方不毛の地へと流刑され、この文を誦じて過ごしていますと、狐狼野干のたぐいが木の実を運び、句を忘れじと傍に繁る菊の下葉に書きましたところ、菊の葉にのる夜露が甘露となって滴り落ち、やがてこの滴を受け、童が黄金の壺に入れ、毎夜運び来て、その甘露なこと、例えようもなく、忽ち仙人となったと聞きます。」 「このように目出度い仙人となるのも、法華経読誦の功徳のおかげ。それで、人間の為には、不老不死の薬のようなものなのです。
 確かに信ずる者には、いかなる悪人、男女とも、仏に成ること疑いなし。このほか、末代の衆生のこと、十方仏のこと、また、生類不信者が悪道を遂げる戒めなどが書かれています。わらわが年月このお経を一心に頼りと信じ、苦力によって、今、仙人となり何事も望むもの無き身となりました。
 おことも、この御経をますます強くお信じになり、御父君、母君の後世をお問いになられましたなら、必ずや天上の内院にうまれ、楽しみを極められること疑いがございません。おことには、修身の三つの徳がございますので、このような所へお連れ申したのです。わらわがこのところ都に通ったのは、そのためでした。おことが幼い頃から法華経を保たれ、この徳により普賢菩薩が十観音、三世諸仏共に、この御経を保とうとする者に報いるべく、現世安穏に守ってやろうと誓われ、まず、おことの日頃の願いである帝のお覚えめでたくあらんという思いに、普賢の御方便にて、わらわがその役に、あの青葉の生うた不老の竹笛を吹いて、特に帝のお覚えがおことにあらんと、しかるべくしむけたのです。」
 ここまで話されると、水晶の棚から童に黄金の箱を取り寄せられ、中から笛を一管取り出され、「わらわが毎夜吹きましたこの笛と申しますのは、わらわと共に150年、それ以前から補陀落山の観音が志にされて来られた宝でございます。不老不死の笛竹となり、青葉二つが生え、若き魂を宿しております。吹けば吹く者の情感を感じて、思いのままに音色を奏でてくれるのです。十羅刹の第六羅刹を御遣いになられ、補陀落世界より戴きました笛でございます。普賢観音の眷属明王が選びなさった笛と聞いております。決しておろそかにされることの無いように…。」と、帝に実存の証にと手渡された。業平はんはこれをおし頂き、再び箱に納められて、有り難く言葉にもならない思いで涙を流されたんや。
 業平はんに酒をすすめられ、瑪瑙の琵琶と黄金の撥をとりそろえられた。童子は撥音高く弾き鳴らされると、天空高く楼閣に響き渡り、雲上の天人も声を合わせて天下って来られ、池の中島に舞を遊び給う。
 業平はんはこの世にこのようなことがあるのだろうかと、不思議の思いをして、その有難さに歓喜の涙が止まらなかった。
夜も更けゆき、この管弦の遊びも終ると、童子は中に入られ、しばらくすると出て来られ、見れば様々な糸で鬢つらを結い、山鳩色の唐装束に唐紅の衣を重ねておられた。「わらわは、まだ今宵の御経を読み申しておりませんので…。」と、業平はんを誘って持経堂の扉を開けられた。瓔珞の露をたれた玉の台にはいれば、異香薫じて灯火にひかり輝く素晴らしい釈迦三尊が安置してあり、今にも動かれるのではないかと思われた。堂宇の荘厳は言葉に言い表せなかった。童子は机に向かわれると、御経の紐が自然と解かれて開かれ、「妙法蓮華経…。」と読み始められた。その御声は黄金の山、銀の山にこだまして連なり、童子の一声に続いて、木石草木の一つ一つ、一枚一枚の葉がそれぞれ千人万人の仏となり、読まれているのではないかと疑われた。有難いこと限りなく、業平はんもいっしょに唱和しはった。「…即報兜率天生弥勒菩薩…」、すると直ちに白座に乗られた菩薩が童子二人を連れられて、幡をさされ、金色の光明を発して、急にあたりが明るくなって、その御手を差し伸べられ、童子の頂を三度なでられて、「善哉、善哉。」とおっしゃって忽ち白雲の中にかき消えたのであった。業平はんは目のあたりにこの光景に接し、随喜の涙が止まらなかった。
月も山の端に傾き、夜もほのぼのと明けてきたので、童子は、「今は早や帰られよ。」と、名残惜しそうに言われた。「箕面寺までお送り致しましょう。いつまでもこうしてはいられないのです。まことに名残惜しうござります。」と、はるかに分け入って来た元の道を二人で抜けると、ほどなく駒の置いた所に出て、そこから馬に乗って滝まで送られると、童子は、「御身の三つの徳とは、第一については、先に申しました法華経を信じて来られたこと。あとの二つは、親に孝、君に忠です。この事によって、この世では帝のお覚え並々でなく、身分の卑しきも尊きも、男女の別なく、共に末代まで御身の名が残るでしょう。わらわも天上にて、おことの来られるのをお待ちしております。必ず再会致しましょう。」と、深く名残を惜しんで互いの別れを惜しみ、そこで別れて童子は仙界へと帰られた。

青葉の笛
 業平はんは、都に帰ると、今か今かとその報告を待っておられた帝に、その一つ一つの不思議な出来事を語られたのであります。そして、青葉の二つ生えたその笛を献上して、それをご叡覧なさり、童子には会えずその笛を聴くことは出来なかったけれど、これぞ他に二つとない霊宝なるぞと、宮中深く納められた。その後、帝は業平はんにお喜びの印をとりそろえて、箕面にお遣わしになられたが、ついに仙人の姿も栖も見つかることはなかった。その後、業平はんは、青葉の笛を帝の前で奏されたばかりか、おそれ多くもめでたいこと限りなく、法華経の功徳によって、今生では栄華を開き中将となられ、後生は天上にて生まれられた人として、人々の夢の中に見られたといいまっせ。心ある人は、業平はんのようにありたい、なりたいと、うらやましく思われ、語り継がれたそうな。また、それから300年もしてから、仙人が赴かれた弥勒浄土に届くように、箕面の滝の上に法華経を如法浄写して供養埋納されたというで…。

猪名のにし東 21世紀の民話その15 日月大高不動尊①

むかし、下止々呂美がキリシタン大名高山右近はんの領地やった時があったんや。
 平安時代から日本最高の大学が置かれたとこて、どこか知ってまっか?せや、比叡山や。延暦寺言いまんな。 ここに高い学問を修め、また、学ぶ若い僧がいましたが、織田信長はんが焼いて、たくさんの僧たちを殺してしまいはった。それだけやのうて、伊勢や加賀、大坂石山寺の一向宗や浄土真宗本願寺派の仏教徒や信徒と戦って、たくさんの人々が殺されたんや。
 下止々呂美村は、八つ岡に比叡山の浄土寺の末寺があって、同じ名前を称して浄土寺て言いました。ここの寺が地頭を置いて、年貢を取り立ててましたんや。ここの名主さんや地頭に任命された武士たちは、浄土寺に帰依して、入道を名乗ってました。
 ところが、浄土寺が焼けてしもて、再建する間もなく本山である比叡山が焼かれてしもた。ちょうどそんな頃、信長はんは高槻に高山右近はんをキリシタン大名として認めはって、教会を建ててもよい、キリシタンを広めてもよいと言いはった。その父、高山ダリオはんは、隣村の高山村から出て、キリシタンになりはって、高山村や余野村や川尻村などにキリシタンを広めはったんや。せやけど、下止々呂美村は、浄土寺の大日如来様を信じてるものが多くて、キリシタンにならなんだ。

 信長はんが死んで、その弔い合戦が山崎でおましてな。右近はんが一番槍の手柄を立てたんや。そのほうびに、下止々呂美やら能勢が右近はんの領地になったンや。そのうえ、高槻に右近はんが安土からセミナリオと言うて、キリスト教の神学校を移しはって、そこに神学生と教授が来ましたんや。ここでイエズス会の高い教育を受けて、一生独身を通して布教する、日本人宣教師を育てたんやな。ここの教授と言うたら、ローマ教皇が日本に布教する許可をした優秀な宣教師を送ってきたんや。
 その教授に、ヨーロッパからはるばる日本で死ぬつもりでやって来たビセンテはんがいました。ビセンテはんは日本の宗教を深く研究し、日蓮宗の高い学問を修めた僧と信長はんの前で論争しても負けないほどのイルマンを育てました。信長はんは、当時の僧の多くが妻を持ち、女や酒を寺に入れ、領地を持って、城館のような寺に住み、僧兵を雇い、人を殺させ、スパイのようなことを仕事にし、さらに、一向宗の一揆を扇動して戦わせることを憎んでいました。清貧な宣教師たちが日本に信者のいる限り、死ぬまでいる覚悟でいることを知ってました。それで、日本の僧よりはるかにましと考えて、キリシタン布教を許したんやろな。
 右近はんの能勢の領地を全部キリシタンにさせようと意気込んでいましたんや。それが、下止々呂美村だけがならなかった。そこで、ビセンテはんは、もう一人の教授フォルナレトはんと下止々呂美にやってきました。
 これまで近村では、釈迦三尊信仰や地蔵尊信仰をしていましたが、大日如来様と不動尊様を信仰する下止々呂美の人々にビセンテはんは、大天使ミカエルという話をして心を奪ったのや。

「大天使ミカエル様は、悪魔を踏みつけ、天から追放し、ゼウス様の命令で軍隊を率いて戦い、人々を守り、死んだ人の魂をアーケロン川で清めて天国に導いてくれる。ゼウス様がこの世に初めて人間をお作りなさった、そのアダムの魂を天に導いたのがミカエル様で、そればかりか、マリア様の魂も天国に無事送り届けられるのを見届けたのです。右手に剣を持って、左手に悪魔を縛り付ける綱をもつ。これこそ、今日まで、あなた方の心から信じてこられた大日菩薩様のお姿を変えられた不動尊様とまったく同じ天使です。心は同じなのです。信じなさい。そうすれば、貴方達の魂は、ハライソつまり天国に救われましょう。貴方達の死後至る賽の河原は、キリスト教のアーケロン川のことでしょう。ここで、死んだばかりの魂を裁くのが大天使ミカエル様です。ミカエル様に祈りなさい。ミカエル様は天使たちの中の最高の天使です。ザビエル様が日本に初めてお伝えになったとき、日本の国の守護天使とされました。よこしまな者はすべて捕え、或いは打ち倒し、或いは生かすのです。今の乱世を清めたまえと祈ろうではありませんか。アーメン。」と語りましたんや。これには、お寺を失っていた入道たちも、高槻の殿さんがすすめはるキリシタンになって、改宗して信じたくなったんやな。こうして、右近はんの領地内は、ことごとくキリシタンになったということや。
ビセンテはんはローマに報告しています。「天正13年、能勢の領地内を全村キリシタンとすることに成功した。」と。
高槻の殿さんがおらんようになって、代官の安威シモンとかいう殿さんが、なんでも清水というとこからダミアン・ロケというバテレンさんを呼んで、ここらや山の信者の世話させはった言うから、しばらく信仰が続いておりました。バテレン追放令を秀吉はんが突然いい出してな、セミナリオも九州へ行ってしもてなぁ。それからほとんどの信者は仏教にもどった。
ほんで、キリシタン弾圧が始まって、日本中からキリスト教の記憶が完全に消されてしもた。マタタビノ水の谷川の上手の籔の中に隠されて残った「日月大高不動尊」の石像は、あの時の名主達の名を10名刻んで、天使の羽根のついた不動尊様を大天使ミカエル様と信じて立てられたもんや。その名前の意味は、「いつも世界中を照らしている偉大な不動尊」「常に守護してくれる不動尊」というんやそうやけど、キリシタンの人は、「太陽や月のように天上から人間を守護してくれる大天使ミカエルの不動尊さま」と信じなすったとか…。この大高というのがな、大天使の大やろ、みかぅぇるの高つまり、だいかぅやな。うまいこと漢字二文字で名前つけたもんや。せやから残ったんやな。ロケはんかて良慶や。高山のジュリアナかて自庵とか西蓮やで。それもこれも忘れられていったんやな。
そんなことがあっても、信じる心は変わらんよってな。今も、お不動さんとして村人に親しまれ、縁日は28日や。霊験あらたかで信仰されています。悪さしたらあかんで…。
この話しが知られてから、地域の文化財や言うて、誰ともなしに「エンゼル不動さん」と、21世紀に呼ばれるようになったンや。9月29日には、キリスト教の人がたまにお花を供えにやってきます。ミケルマス言うそうや。なんせ日本の守護天使は、ここしかあれへんで。
今は、キリシタンの名残は全くなくなってしもたなあ。ほな、またナ、これでおしまい。

猪名のにし東

止々呂美のまたたび

むかし(1538年頃)、止々呂美の豊楽寺観音堂に三年ほど滞在し修行された満誉(まんよ)という浄土宗の和尚さんは、六年経ってから池田でお寺を建てはった。不断(ふだん)山瑞雲院西光寺(天文15年1548建立)といいます。
不断念仏するお堂(三昧堂)やったんを、念仏往生を願う村人に乞われて再建しはったンや。なんでも知恩院の徳誉大僧正の嫡弟で祐圓和尚さんのことやそうな。
ある日、西光寺の桜の木の根っこを枕にして、なんと豊楽寺の十一面観音様が寝っ転がっておられるのを下止々呂美の村人が見つけ、びっくりして、「和尚さん、わしらの村の観音様が、あんなとこに寝てらっしゃるで」と知らせましたんや。驚いた和尚さんは、「不思議なこと、あるもんやな、これは、南無南無…」と、観音様を背負われて、村人達と池田道を途中、村境の地蔵さんで一休みして、そばを流れる渓水をすくってのどを潤し、それからその日のうちに豊楽寺に送り届けはった。
数十日すると、また、おんなじことがありましたんや。「こんな不思議なことが、二度もあるもんじゃな、南無南無…」と、今度も背負うて届けなさった。和尚さんは、豊楽寺に留まりはって、丁寧に今度は七日の祈祷をお篭(こも)りして、観音様が落ち着きはるように祈りはった。
ところが、この不思議なことが三度ありましてな。それは和尚さんが初めて豊楽寺に来はってから20年目(永禄元年1558)の春のこと、また、西光寺の境内の草の上に安らかそうに十一面観音様が横たわっておられるのを、これまた、下止々呂美の村人が池田に荷をしょってやってきた時に見つけ、「和尚さん、わしらの村の観音様がまた、寝ておられるでぇ」と申し出ました。「決して、わしらがしょって来たンとちゃいまっからナ。これは、おかしいで」と、言うと、和尚さんも、「うーん」と考え込みはって、「どうじゃ。この観音様をここの西光寺に安置して、お守りさせてはもらえまいか」と申し出はった。村人達は、「村に帰って、この事をみんなで相談してみましたけンど、今日の所は、仏の顔も三度とかで、ひとつ和尚さん、しんどうてえらいでっしゃろが、また、おぶったっていただけませんやろか」とお願いした。
和尚さん、肩にかけてえっちらおっちら、もう歳やさかい、休みながら、村境の地蔵さんで小川の水をひと飲み休んでから、豊楽寺まで送りましたんや。
その翌年(1559年)8月6日、高徳で慕われはった祐圓和尚さんが示寂(しじゃく)されました。
それから間もなく、下止々呂美の西の所焼けという大火事があり豊楽寺が焼けてしまいました。正平のご一統(1351年)、持明院光明天皇のお后が、北畠顕能の御所侵入の八幡合戦で、亡くなり、そのお弔いをされたお寺です。 観音様が本尊で、皇后はんの像や裏に光明皇后の石塔(宝篋印塔)と古墳がおました。村人達は、悔やみました。「あの時、和尚さんの言いはる通りにしてたら、せめてあのきれいな観音様だけでも、ご無事やったのに…」
すると、止々呂美を流れる余野川の下流、十八町(約2㎞)ほどにある細川村の久安寺の近くに何やら、仏さんが浮いてる言うンや。村人達五人ほどで見に行ったら、何やら仏像が淵に留まって、浮いたり沈んだりしている。「アッ、豊楽寺の観音様や!」悔やんでいた村人達は、もう相談もせんと、観音様を救い上げ、みんなで交替交替背負って、池田の西光寺迄お連れしました。「あれほど、満誉和尚さんを慕って、何度も西光寺まで旅しはった豊楽寺の観音様を、今、村にお堂もなくなって、なんとか、西光寺にお守りしていただいてはどうやろかと、お連れしましたんや」とお願いしました。ま、こうして、観音様が、今も西光寺におられるンやけどな。
村人達が「よかったよかった」言うて、池田道の帰りしな、祐圓和尚さんがよく休んでおられた村境のお地蔵さんで一服していると、池田に向かって歩いたはだしの足跡が点々とあるのを見つけ、「あれ、これって、観音様の足跡ちゃうか」「せや、せやで。火事の後、久安寺までようよう旅しはったンや。足に傷してはった」「前にも三度旅してはるもんな」「ほな、また旅しはったンや」と、この話しが村中に知れ渡って、いつしか、この村境を「またたび」と呼ぶようになりましたンや。そして、この渓流の水を「またたびの水」と呼び、山の湧き水やさかい、、名水やな。せやけど、トンネル出来てから、水脈が切れてしもたわ。池田道沿いの田んぼに水が来んようになって、今は、箕面治水ダムから水引いてるしまつや。マタタビ言うたら、旅人が旅に疲れたとき、マタタビノ実を食べたら、元気になるというので、その木の名前やけどな。
西光寺の十一面観音様は、小野篁という仏師の名が刻まれているそうな。はだしで足を少し怪我されておます。
光明皇后はんを弔ってから200年もたって、ほったらかしになっていたお寺を万里小路秀房卿息徳誉大僧正の嫡弟の祐圓和尚さんが留まりはってから、この観音様が和尚さんをお慕いなさったんやろな。ほんま、優しい和尚さんやったな。でもな、こんなに高徳のお坊さんが亡くなると、その成仏を妨げる悪魔がいてな、観音様お一人だけでは浄土へ導かれなんで、先に火事になってしもたンとちがうかな。お不動さんがその悪魔を斬り倒し、和尚さんの魂を導いてくれはって、地蔵さんが三途の川を渡してくれはったンや。観音様はたいへん喜びはりましたそうや。それで、またたびの地にお地蔵さんとお不動さんが祀られて、道行く人は手を合わせて通るようになったンや。霊験あらたかで、悪さしたら、たたると言われてます。大事にしなはれや。
ほな、またお話しするわ。

池田町と木部の間隠れ里 摂津有馬の湯山権現

柳田国男の「山島民譚集」から北摂の民話を二話紹介します。   文は飯島正明
池田町と木部の間隠れ里
摂津豊能郡細川村大字木部と池田町との中間に一つの隠れ里があってな、この里に万福長者が住んでおったが、とうとう亡くなって、その跡があると「摂陽群談」に書かれておるんや。
その隠れ里の入口は洞穴やそうで、なんでも、その穴というのが古墳の横穴で、中に入ったら石の船がおいてあるんや。そこが竜宮の入り口やそうな。その船は石の棺桶やねんけど、竜のおるところまで行くそうな。そこへ行って打出小槌をもろうて帰って、長者になったというので、打出村という名はここから起こったといわれているんや。
長者は滅んでしもうて、もうだいぶ経ちますさかい、隠れ里もわからんようになってしもうたけど、その場所で物を拾うたら、その人は必ず幸せになるいうて、今も信じられてますんや。そこを見つけたかったら、地上に耳を伏せて聞いてみい、酒宴饗応のうらやましい音が聞こえるんや。隠れ里の音やそうな。今でもそういわれているで。
摂津有馬の湯山権現
阿波の領主三好修理太夫長慶の弟に勇猛果敢な十河一存(そごうかずまさ)という武士が痘瘡を煩ってな、有馬の湯に養生に来たんや。おとなしく湯につかっとればいいものを、具合の良くなった一存が有馬権現に馬で参詣に行こうとしたところ、みんなが「有馬権現様は馬を嫌ってはるから、馬に乗って行かん方がよろしいでしょう。やめときなはれ。」と止めるのを、おしてなぁ、立派な葦毛の馬に乗んなさって、ここの山を登りはったんや。ほなら案の定、途中で馬が何をきらったのか、馬が急に暴れだしてな、落馬しはったんや。国へ帰りはって程なく、病に伏せって亡くなりはった。1561年(永禄4年)の春24才の若さでしたなあ。
摂津有馬の湯山権現さんは、この山の地主神でな。むかし女人の姿になって、麓で遊んでおられた。
ある時、摂津守護なにがしがタカ狩りしてたんやが、この権現さんの姿を一目見たので、馬に乗って近づこうとしたら、どんどん山の奥へと入っていくので追いかけたところ、怪しく思い、矢をつがえて射なはったそうな。すると、その咎(とが)で、この武士は命を落としはったそうや。それで、この山に弓・矢・馬で入ったらな、必ず山が荒れて稲妻・雷があるといわれておるんや。

機織り姫と猪名津彦4

初音塚(現箕面市稲)は江戸時代の「山崎通分間延絵図」(文化4年)に描かれています。
都賀使主が429年に亡くなり辰の宮(今の瀬川神社の地)に祀られました。
反正大王(はんぜいおおきみ 倭王珍)は、猪名津(後の稲津)の港を経営して、為奈野を開いた二人の死を惜しまれ、二人に「猪名津彦」の名を勅諡(ちょくし)され、大明神とされました。その後、神社として猪名津彦神社が字平井に、為奈野神社が西稲に祀られました。
後に池田に穴織神社が祀られますと、この境内に猪名津彦神社が平井から移されました。
明治の神社統廃合でなくなりましたが、穴織神社・呉織神社などは残されています。池田市章には、この染殿の井の井桁紋が用いられています。
阿智使主が亡くなった年のこと、履仲大王(りちゅうてんのう 倭王讃)は阿智使主の業績を偲ばれ、弟媛(おとひめ)に百済の綾錦(あやにしき)を織るように命じられました。
弟媛はさっそく阿智使主が愛しておられた穴織姫・呉織姫らの協力を求め、彼女たちに任せようと思い、真っ白な絹糸を納めて荷とし、使いを送りました。 阿智使主はすでになく、墓は稲の使主邸跡に営まれ、阿智王塚と呼ばれていました。高津宮から船で猪名津(稲津)にやって来た弟媛の使いは、まず、むかし阿智使主にお世話になったので、この阿智王塚に参り、桑の木の広がる奈伊良野にある機御殿にやって来ました。
弟媛からの手紙には、この使いに吉祥日までに綾錦を織って献上させてほしいという事が書かれていました。そこには、王様のご命令なので、期日が定められているとも書かれていました。
寿命寺呉服姫2 穴織姫はすぐに呉織姫と力を合わせて、仕事に入りました。糸を染殿の井で洗い、美しい染め色に仕上げ、それぞれの色別に糸が絹掛けの松に干されて乾かせられ、糸巻にまかれていきました。
そしていよいよ、織殿で織り始められました。踏み木を踏むと紐で結ばれている綜絖(そうこう)が下がり、縦糸が上下に分かれ、その隙間に杼(ひ)で横糸を通します。筬(おさ)で横糸を縦糸にしっかり織り込みます。
パタパタコトン、パタパタコトン…この音こそが「ハタ織り」という名になったんや。
ところが、その日に限って織り上がりが思うように進まず、日も沈み、まだ織りあげることが出来ません。穴織姫・呉織姫は途方に暮れ、窓から見える星空をみつめていました。すると、急に空の星という星が満天に輝きだして、顔を明るく照らし始めました。「しとね戸を開けましょう。」と、二人は、この明るいうちに大急ぎで織ろうと、織殿のすべてのしとね戸を跳ねあげました。するとどうでしょう。星御門に諸星が天下って、そこから星くずのような光がしとね戸をくぐって、室内のあちこちをキラキラと照らし、輝き、まるで昼のように明るくなったのでした。こうして、期日に間に合うことができたのでした。 翌日、使いの者に昨夜の不思議な星明りが美しかったことを話しましたが、そんなことがあったとは、だれも知りませんでした。
これは、阿智使主が穴織姫・呉織姫の二人をとても愛しまれておられたので、助けられたのだといわれますが、今も星が降りて来たとされる所に星御門(建石町)が祀られています。
この場所は、阿智使主がお亡くなりになられた時、毎夜ここから光が発せられて、星明りよりも明るくなったといわれる場所です。
阿智使主がこの地を開かれた時、はるばる百済から犬養物部とともに連れてきて大切にされていた愛犬が死にました。
阿智使主は、七夕の牽牛(けんぎゅう)・織女の話を思い出され、草履を千足編んだ牽牛が、これを積み上げて天に登って行きましたが、あと一足作っていなかったため、天上に上がれません。その時、かわいがっていた犬も登ってついてきて、牽牛が困っているのを察し、最後の踏み台になってくれました。こうしてようやく天上に上がれた牽牛は、織姫に会うことが出来、また、犬は主の帰宅を待って死にます。この話を愛された阿智使主は、愛犬をしのばれ、墓を作ってやることにしました。その犬の墓だったといわれています。
主が亡くなった時に、それを待っていたかのように光がこの墓から毎夜放出され、都賀使主の住む竜の井がある辰御門(現瀬川神社)に達し、使主はびっくりしたといわれます。
すると、天から声がして、水底に伏している龍をお呼びになり、なんと、辰御門にある龍の井から、阿智使主を載せて、龍が勢いよく愛犬と共に天上に昇って、はるか北極星に向かって消えて行って、阿智使主は星になられていますのや…。
それで、かつての星御門を「星の宮」、辰御門を「辰の宮」と呼ばれたといいますのや。

機織り姫と猪名津彦3

そして、新羅を攻めた軍船が航海神として祀られている敏馬(みぬめ)の港に寄港しました。ここまで4ヶ年もかかりました。そこで神酒を頂いていますと、応神大王がお亡くなり(394年歿)になられたと、次の寄港先難波の津より知らせが入りました。
阿智使主は、織女らを求めるように王命があったことを伝えましたが、四年も前の大王の命令を引き継いでいる者がいませんでしたので仕方なく、武庫の港に上陸して、指示を待ちました。織女らは、しばし松原に出て、松に身を寄せて、今さら帰るわけにもいかず、百済の故郷を偲んだのでした。それで、ここに後に織姫大明神として小社が祀られています。
使主としての苦労が報われないと知ると、阿智使主は、船の舳先を武庫から猪名川に向け、古江の港へと向かわせました。そのあたりは、為奈野(いなの)と呼ばれ、阿智使主が連れてきた漢人もいて、のちに仏教伝来後、坂上寺(はんじょうじ、半町の語源となる)を建立します。
為奈野の笠原に、都賀使主の母たちが住んでおり、百済から連れて来られた伽耶(かや)の須恵器職人もいて、桜井谷に都賀使主の子孫桜井宿祢祖の爾波伎直(にはきあたい)の下で窯業生産(のちに桜井谷古窯群と呼ばれる)を始めています。
曳き船を泊めて、穴織姫・呉織姫らと上陸したところを唐船ヶ渕として名が伝えられています。高句麗に伝わってきた仏の像を船旅の御守りに携えてきましたが、仏教もまだ知らなかったので、無事船旅が終えられたことを感謝して、この渕に沈めるのでした。
さて、仁徳大王がこの事をお知りになられ、阿智使主は大王に弟媛を捧げました。そして、奈伊良野(今の新稲)に穴織姫の織殿、平尾に呉織姫の縫殿が建てられ、ここに二人の姫をすまわせ、この地をはた織発祥の地としたのです。奈伊良野には桑の木が植えられ、養蚕がどの農家の天井裏でもおこなわれました。
織殿では、あのミニチュアをもとに大きな立て織と呼ばれるはた織りの複雑な機械が造られ、据え付けられました。染殿の井と、後に呼ばれる絹糸を染める時に用いる清い水を汲む井戸も作られました。唐池や唐古川の名はこの頃名づけられました。
後に渡来人達の機織りの里だったので「ハタ郷」と呼ばれ、「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」辞書に「秦上郷」「秦下郷」と書かれました。それで、阿智使主(漢氏)の子孫たちは、ここでは秦氏を名乗っています。
この後、仁徳大王が亡くなられた時(399年)、住吉国の仲皇子が王位をねらって反乱を起しました。この時、阿智使主らは、履仲大王(倭王讃)を助け出され、その功で蔵の官職となり、明石に領地を賜りました。蔵郷といいます。そして、阿智使主は404年に亡くなりました。その墓が西稲の初音塚といわれます。(つづく)

機織り姫と猪名津彦②

その頃、倭国では応神大王が大江(今の淀川)の河口を扼(おさえ)るように大隅宮に住まわれており、住之江の軍港は、戦いを勝利に導いていました。いくさ神、航海の神である住吉の神の小国には、大王の母君の神功皇后が祀られています。
百済から、大王は多くの戦利品や生口(敵の捕虜・奴婢)たちを伴って帰国しましたが、望んでいた「立て織」と呼ばれるはた織りの複雑な機械と、それを操るという「織女」を得ることは出来ませんでした。
応神大王が王子の頃、母の言葉に「吾が朝、開けし時より鷲の糸を採り、麻を植え、苧(ちょ)を求め、絹布を成せりとはいえ、裁縫の家を知らず、衣縫う姫を求めたきものよ。」と耳にしていましたが、見つかりませんでした。
その時代、百済の国では、わずか48年の間に5人もの国王が次々と亡くなり、代わるという情勢不安が続いていました。
一族の将来を考えて、阿智主(あちのおみ)と呼ばれる漢人の長は、一族と、漢字のわかる七姓の漢人達を率いて、応神大王を慕って、はるばる海を越えてこぞってやって来ました。大王は、その願いを受け入れ、使主(おみ)の号を与えて一族を大和(奈良県)に住まわせました。子孫の漢直(あやのあたい)を漢字を読める役人として用いました。これが漢字と書かれる始めです。倭語で、「あや(文字の事)」とよびました。
その阿智使主に、応神大王は思い出されるように話されるのでした。「そなたのいた、百済の国は、仏教とやらが伝わった(372年)という高句麗と、盛んに肩を並べようとしておるようだが、呉国(当時の古い中国を指す語)から、呉服(くれは)と申す美しい着物も伝えられたと耳にしたのだが、倭国にても作らせたいと願っておる。それを織りだす「立て織」と呼ばれるはた織りと、それを操るという「織女」を、百済の国から求めて来ては下さらぬか。ひとつ使主として、そなたの人望と力をお貸しくださらぬか。」と申し出られました。阿智使主はさっそく息子の都賀使主(つかのおみ)とも相談して、お受けすることにしました。
当時、文明流出は他国交渉の手段にされていた時代です。容易に機械とその技師を他国に渡すようなことはしません。その時の百済の王は、応神大王の命で、倭に礼を失した辰斯(しんし)王(392年歿)を倭の四宿祢たちが出向いて、殺させ、これを継いだばかりの阿花王(あかおう)でした。
仁徳大王に阿花王は、太子の直支(とき)を倭国の人質に遣わし(397年)、倭王と関係を修復し、新羅・高句麗の圧力に対抗していました。特に応神大王の名声は広く知られ、好太王の碑文にまで書かれています。阿花王は、阿智使主らの申し出に、応神大王の「もしその賢き人あれば奉れ」とあり、今後の事を考えて悦び、さっそくミニチュアの複雑な立て織機を金属で作らせ、さらにその技術に長じた兄媛・弟媛の姉妹と、穴織姫・呉織姫の二女をつけて、阿智使主らに託し、渡航させました。
帰路、阿智使主らは沖ノ島の海の関所で、宗形神を祀る首長に兄媛を捧げ、瀬戸内に無事入ることが出来ました。   (つづく)