豊能町よいとこ探訪記

⑧伝親鸞聖人像と高札場

 高山光明寺は、紫雲山光明寺と称する浄土真宗西本願寺派に属している古刹です。
 777年に光仁天皇の子、開成皇子が、勝尾寺の奥院として創設したと伝えられる。1232年親鸞聖人が当寺に逗留の時、住職であった乗意が弟子となり、光明寺の名を受け、真言宗から浄土真宗に帰依したと伝えられている。 現在の建物は寛保年間(1741~1744)のものです。
 このお寺に「親鸞像」として伝わる木像を町の文化財調査委員会が調査したところ、町内に残る数少ない鎌倉時代の制作のものであると判明しました。
 この像は、町にとって文化的価値が高いと認められたので平成25年(2013)9月26日、町の文化財と指定されました。

法量:像高24.7㎝、臂張14.8㎝、膝張(最大幅)16.6㎝、座奥10.4㎝、形状:頭髪を正面で左右に振り分け、耳を覆って両肩から腰まで長く垂らす。
 袖内にした両手を胸前で屈して座す。品質構造:ヒノキ材、一木造り、彫顔、もと彩色仕上げ。現状は、底面を除いた全面黒塗り。銘文:(像底墨書)「承元二戊辰歳 二月中旬作之 愚禿善信」伝来:像底の銘文からわかる様に、親鸞像として伝えられてきたものである。備考:台座、逗子有り。
 服制による判別も、現在のところ難しいが、一般的には女神像と考えられている。下膨れで面長な顔にやや厳しい眼、やや盛り上がりある肩、奥行きのある頭部と体部などから、本像は前代の様式を残す鎌倉時代の制作ではないかと推測される。像底部の朽損の状態から、本尊は神木などの由緒ある木から彫成されたことが考えられる。厨子は、台座板裏面の銘によると、寛文元年(1661)、京都の山路重直が制作したものである。また、「愚禿善信」とは親鸞聖人の事である。
高札場(高山)
 高札場は今で言う街角によく有る掲示板の様なものですが、大きく違う所は、その発行元がお上(幕府や領主)であることです。お上が決めた法度(はっと)や掟手書(おくてがき)等を庶民に周知徹底するためにつくられた施設、これが高札場です。
 さらに具体的に申しますと、法度や掟手書を木の板札に墨書した高札を揚げた場所の事です。 その起源は今から1230年前・奈良時代の後期、延暦元年(782年)にさかのぼり、特に江戸時代にはその全盛で6万を超える全国の村々に遍くあったようです。
 高山の高札は、明治維新後も新政府は引き続きキリシタン禁止策をとり、慶応4年3月(1868年9月明治元年)に邪宗門禁止の高札で有りますが、この高札により長崎・浦上のキリシタン3300人余を流罪に処したと」伝えられています。
 高札は明治7年(1874)に廃止が決定され、2年後には完全に撤去されたのです。現在残っているものは殆どありません。
 高山の高札場は昭和52年に改修されたものですが、当時の構造がそのまま残されている貴重な遺構です。設置しています高札はレプリカですが当時のものは高山コミュティセンターで保存されています。

 高札の主な内容は「道徳、切支丹、火付け、駄賃、毒薬、報酬」等です。また、この高札の中央に安置されている、
 地蔵像の下部に変形クルス紋の先端部と見られる図柄があります。これはキリシタン遺物と考えられています。高山地区は高山右近の出身地と言う事で、幕府の取り締まりは特に厳重でこのようなものはほとんど残っておりません。
 今回で豊能町の指定文化財の掲載は終了いたします。長くお付き合いいただき誠に有難うございました。また、トヨノノポータルは会員の活発な取材により記事等が充実して来ております。
アドレスは下記の通りです。
トヨノノPORTAL、https//toyonono-portal.jp

⑦能勢のおいのこ

  町の誇るべき文化遺産の「能勢のおいの子」を紹介します。通常、「禁裏御用亥の子餅」と呼ばれています。亥の子餅を作った用具等が大阪府有形民俗指定文化財であります。
 天皇の食事を司る料理人を供御人と称し、「亥の子餅」を調整する者を亥の子株と称した。 亥の子株は13家が許されていて、太閤検地では除地されたり、その他朝廷から優遇を受けていた。また、村民から尊敬されていた。
 今から千六百年前のお話です。神功皇后(391年)が三韓を征し、皇太子(のちの応神天皇)とともに凱陣された時、皇太子の異母兄弟に当たる香阪(かこさか)、忍熊(おしくま)の二王子が、謀反のたくらみを持って、神功皇后と皇太子の軍を迎え撃つ計画を立てました。二人の王子は、この戦の成功と失敗を占おうとして、能勢の山中で狩りを催されました。ところがその時、突如とし襲いかかった大猪のため、香阪王は死去され、この計画は失敗に終わりました。
後に、天皇となった応神天皇(400年?)は、猪のため危難を免れたことを思い出され、毎年亥の日の天皇・皇后の召し上がりものとして、亥の子餅献上する様「木代」「切畑」「大円」の三村に詔をだされました。これが、亥の子餅の献進の起こりと言い伝えられています。

 弘安6年(1283)以降についての文献はあるが、それ以前の約900年間は文献はなく木代村の伝記である。この期間亥の子餅はどの様に存在していたかは、そして弘安6年(1283)以降、明治二年までの京都から東京に遷都となるまでの600年間、激しい政情の変化の中、継続出来たのは疑問が残ります。100年後の平成の時代になって2回にわたり宮内庁に献上した事実が有ります。
 亥の子餅を調整と献納する場合は、亥の子株当番が御賄所(おまかないしょ)に出頭し御用の数を伺い御賄所からの「御書下げ」を持ち帰る。
 調整の家、従事者、井戸、器具など全て僧侶(木代村は真言宗善福寺、切畑村は日蓮宗法性寺)により加持祈祷してもらう。家族全員別居、家の四方に忌み竹(いみだけ)を立て、注連縄(しめなわ)を張り巡らせる。門前には「不浄者不可入」の制札をたてる。糯米(もちごめ)を洗い水浸し、蒸し器に入れて蒸しあげ、別に煮た小豆を蒸し米と合わせ、四斗樽大の梃桶(ねりおけ)に入れて二本のヌルデの棒で「エイエイ」掛け声を出しながら搗(つ)くと、淡紅色の猪肉の色に似た色餅が出来る。

 これを長さ六寸、幅四寸、深さ一寸三分の折り箱に詰め(猪肉にみたて)、その上に別に煮た小豆の窯に沈殿した餡をかけ、さらに方形に切った栗の実を六個二列(骨に見立て)に並べ、尚、その上に熊笹二枚を被せる(牙に見立て)折り箱に蓋を被せて細紐で結び、献上の唐櫃に納めて錠をし、注連縄を飾り宰相の前面には白幣(しろにぎて)と菊御紋のついた「御用」絵符を立て前後に二個を一荷として、白木綿で担い棒で結びつける。
 菊の御紋のついた提灯で道を照らし、亀山(現亀岡)へ向かい、宮中に建進に行く。この道中は、大いに威張って道中したらしい。帰りの道中は御用の絵符などないため、冷笑、暴言などを浴び大変だったらしい。
庶民の亥の子の行事があります。民俗学者の柳田国男によれば「山の神は田の神となり山から下りて来られ、田植え、稲刈りなどが順調に推移するのを見守って下さる。そして豊作をもたらせて山へ帰られる」と信仰がありました。
 田の神が山へ帰られる十月亥の日に、農家では新米でぼた餅を作り、一升枡に入れて神棚に供え田の神に感謝する。
 この行事は最近ほとんど行われていない。しかし、子供たちによる「亥の子搗き」行事が豊能町、能勢町では毎年行われてきた。最近の少子化により学童も少なくなって来て、毎年危ぶまれる状態になっている。 十一月亥の日が近づくと、昔は祖父が藁鉄砲(亥の子棒)を作る。子供たちは五~十人のグループで家々を回り、家の門口で囃子を歌いながら亥の子棒で地面を打つ。地面を打つのは地霊を鎮め、豊作に感謝すると言われている。各家では金一封やお菓子等をリーダーに渡し、リーダーは自分の宰領で子供たちに分配する。子供たちは正月の臨時お年玉になったそうです。

 この「亥の子搗き」行事は関西を中心に、東海、四国、九州辺りで行われている。写真は木代浅田崩尻地区の子供たちの「いのこ搗き」です。
 この「亥の子餅」は当町の「高山右近」と共に誇るべき文化遺産であり、保存して行くべきと思いますので、是非、何とか「豊能町の亥の子餅」のブランドで商品化して販売することは出来ないでしょうか?
期待しております。
「禁裏御用」栩野勝也著、
「豊能町の民話」豊能町教育委員会発行を参考

⑤吉川地区探訪

 大阪府の最北端の駅、能勢電車の妙見口駅(標高約190m)のホームを下りると、そこが吉川(153世帯、人口289名令和2年12月末現在)です。
騒々しい大阪都心から1時間足らずで沿線の山々の四季の変化を楽しみながら、空気が綺麗でおいしい町に到着します。
 今、この駅は地元の人、妙見山ハイキング客、四季折々近郊観光地に行かれるお客さん等、年間5万人の乗降客があります。

北の方から「上の町」「中の町」「下の町」と呼ばれています。妙見口駅手前に昭和43年(1968)頃から大きな4つの新興住宅地を開発した時の駅「ときわ台駅」「光風台駅」があり、令和2年12月末現在、住宅地には6556世帯、14470名が住んでいます。
 吉川地区は、丹波高原の南、北摂山地の中央部に位置しており、初谷川および平井川の浸食堆積により出来た小さな盆地です。初谷川は猿坂橋付近で平井川と合流し、その後、川西市の大路次川と合流し、それから猪名川に合流し大阪湾に流れて行きます。
 古代の地方の行政組織で当時の村の形態は50戸ごとに編成され、その50戸を越えた余りの地域は余戸と呼ばれ、天台山を越えた所にある川尻地区の余戸(あまりべ、あまるべ、よこ)として、長保5年(1003)、吉川は誕生しました。

 吉川(吉川村)の名の由来は、伝承説と高代寺日記説があり,、伝承説は、吉川には大変良い川があり、良い水があるから吉川村とつけたと言われています。 高代寺日記説には、昔、源満仲は奥方が病気になり、高代寺薬師堂に7日間祈祷をしました。本堂の近くから湧き出ている閼伽井神泉(あかいしんせん)の水を汲み、7日間炊いたところ塩水になりました。奥方がこの塩水で100日間行水をされたところ、病気が良くなりました。その後、塩水を元の水にもどす祈祷を3日間されると元の水にもどったと言われています。
このようなことから、吉川の地名は、高代寺の山号・吉河山(きっこうざん)「水を良くすること」から来たと言われています。
 過去には、米、マッタケ、炭、薪、三椏(みつまた)、銅、瓦など多くの特産物がありましたが、環境の変化や資源の枯渇、生活様式の変化により米、炭、薪以外は廃れました。昭和30年代後半(1960)には主要エネルギーが薪・炭から石油、・ガスに変わり、従来の産業は殆どが廃れて行きました。

 吉川で焼かれていた炭は菊の様な細かな割れ方をするので「菊炭」と言い、品質の良い炭を産出していて、太い大きな台木(台場クヌギ、ブナ科)のある「クヌギ山」が初谷川沿いの他周辺至る所にありました(吉川小学校近くの中の町に今でも存在します)。安土・桃山時代、天正2年(1574)に吉川の「中川勘兵衛清光」が創始したと豊能町史に記されています。「千利休」も使用し、茶道において全国的に良質の炭として珍重されました。
 勘兵衛は窯内消火後、還元焼法と言って窯の入り口を閉塞して土でふさぎ、炭の火加減を見て適切な日にこれを開ける独特の方法で炭を焼き、池田に出荷したので一躍「池田炭」のブランドで有名になった様です。黒炭と言われ、やわらかく、火つきが良いが火持ちが悪い。
この製法で北摂地方には約200窯があったと言われています。
 現在、黒川地区(川西市)で一軒だけ炭焼を生業といている家が有ります。因みに、白炭と言われる代表的なものが備長炭で、ウバメガシ(ブナ科)を焼き、硬く、火つきが悪いが火持ちの良い炭があります。
 また、吉川地区は歴史的な、神社仏閣、石造物が多く保存されています。自然も昔の里山が残り、1960年以降あまり人の手が入らず、放置したままで、半自然植生[二次林(里山)]より以前の状態になるのではないかと懸念します。
 今はそれなりに多くの種類の木々が成長し、景観も良くなっていますが、放置したままでは、将来は暗い照葉樹林ばかりで中低木の樹木、野草はなくなるのではないでしょうか。
【妙見口駅よりお薦めコース】
①新花折街道→吉川自治会館の常夜燈→西の灯篭→考鬮寺→吉川八幡神社→高代寺山
(約2時間30分)
②新花折街道→吉川自治会館の常夜燈→西の灯篭→考鬮寺上杉コース→妙見山
(2時間30分)
③下の町→西方寺→東の灯篭→初谷渓谷→妙見山(3時間)
*途中、緊急連絡ポイント7番(恐竜の卵のモニュメント)の折り返しでも植物等の散策コースとしても楽しい。
(往復 約2時間)
④下の町→吉川峠(天台山方面)→光ケ谷(3月末にはミツマタが開花)
(往復 2時間30分)
*地図等は妙見口駅前の豊能町観光ボランティアガイドの会の案内所に有ります。
参考:吉川学(吉川小学校)発行

③豊能町の文化財

 豊能町には9つの文化財が有ります。
先ず、石槽(石風呂)についてご紹介します。切畑法性寺(切畑地区)の境内に有ります石風呂は鎌倉時代のものと推定され、石材は花崗岩、長辺200cm、短辺130cm、内法各150cm深さ50cmである。側面の排水溝にかけて浅い溝があり、短辺部の上部に1ケ所、給水口と思われる3cmほどの窪みが付けられている。また、窪みを数か所、薬草を使用し身体を洗っていたと思われ、置き場所として穴を掘ったと思われる。僧侶が斎戒の為に使用したという説、人々が厄病除災にご利益があるとして入湯したという説、単に人々が共同浴場として使用したという説などがあるが使用目的は明らかでない。入浴する時には、石を熱して、それを石槽の中に入れ、お湯にして入ったと言う伝承がある。筆者は僧侶が体を清める為に使用したのではないかと推測します。読者の方で、この石槽の使用方法等をご存知の方は連絡いただければ幸いです。昭和49年3月(1974)、大阪府有形文化財に指定された。

二つ目の石槽は、木代地区福田の集落から東へ約1kmの東の山麓に頂応寺跡があり、その堂跡後にある。年代は鎌倉時代と想定される。残念ながら、中央部付近で花崗岩独特の鋭利な刃物で切ったように中央部付近で二つに破砕され、いたるところが欠損している。底部の南側に蒲鉾状をした水抜き孔がある。この石風呂は、設置状況から考えると、周りには多くの大きな花崗岩が見受けられるので、それらの内の一つを石工が造ったものと考えられる。当時の器具、道具から考えますと他所からこの場所に移動させたとは考え難い。頂応寺跡前を通る道は、余野越街道として東能勢村(現豊能町東部)から多留見峠を超えて西国街道に出る重要なルートであった。天正の末期(安土桃山時代)キリシタン大名高山右近は織田信長の命により余野城を責めている。城に火が上がる様子を右近はこの多留見峠で見ていたと言う。この寺の周辺から鎌倉初期の瓦器の破片が多数出土している。昭和49年3月(1974)に大阪府有形文化財に指定されている。
3つ目は、昭和20年(1945)の秋まで、豊能町切畑(大円・風呂の前)、現在の木代にある向陽山朝川寺(曹洞宗)にあったが、細身良氏3代目(細見美術館)が所蔵し、泉大津市に移転した。その後、時期は不明ですが、現在は京都市上京区にある臨済宗相国寺派大本山相国寺にある。相国寺に移転したとの情報があり、その時点で府外移転したので「文化財指定が解除された」。平成29年3月、豊能町観光協会々長 谷川育子氏、同会理事の西川隆夫氏が、豊能町の貴重な財産であり、由緒ある文化財であり、観光振興の一翼を担うことを念願され、相国寺に対して変換の嘆願をされましたが、残念ながら申し出は辞退されました。いつかは変換され、豊能町の貴重な歴史ある文化財になることを願います。
話は変わりますが、豊能町余野の法寿庵家が所有していました宝篋印塔もこの様な話が有ります。法寿庵家の本家が没落し、敗戦によって秩序が荒廃した時期とは言え、正当な取引によって引き渡されたものではありません。この宝篋印塔は正和3年(1314)建立されたもので、殆ど破損もなく重要文化財級(?)のものです。また、機会があれば紹介したいと思います。現在は兵庫県美方郡新温泉町浜坂、玉田寺に現存します。

⓷切畑法性寺地蔵石仏:最近に造立された様な、劣化も酷くなく、お寺、檀家様の普段の管理も行き届き、大変綺麗で、材質は石英閃緑岩で造られ白く輝いている。高さ133cm、最大幅79cmの自然石の表に大きく蓮華座を刻み、上に高さ83cmの船形をほりくぼめ、像高70cmの地蔵立像を肉厚彫りする。右手に柄の短い錫杖(僧侶や修験者が持っている杖)を持ち、左手に宝珠(災難を除き、濁水を清くするといわれ、思い通りになる珠のことをもっている。得るとどんな願いも叶い、欲しいと思っている宝物を作り出すと言われている。増益の現生利益を祈る対象です。)衣紋は左右相称だが、像容よく整い、写実的であり、像全体から受ける感じは、ゆったりしたものがある。典型的な鎌倉時代後期の形である。鎌倉後期中ごろで、石造美術が最高の造形美に達した時期である。豊能町におけるこの時代の在銘文化財は、大円釈迦堂の還元二年(1303)の阿弥陀三尊笠塔婆とこの地蔵石仏の二基あるのみである。この点から豊能町における重要文化財である。平成12年5月30日に豊能町の有形文化財に指定されている。
このお地蔵さんは「影ひき地蔵さん」と言われ、豊能町の民話に語られています。
最初は、今の所から500mぐらい上の、南月見山にお祀りしていました。はるか西南の方には尼崎の海が見えました。ある日、尼崎の漁師さんが来てこのお地蔵さんから光が差して魚が逃げてしまうので、もう少し下に下ろすよう依頼がありました。しばらくすると、また漁師さんが来て、まだお地蔵さんが光って困りますと言われたので、今の所に移動したとのこの様な民話が有ります。尼崎城が再建されたので見学方々、実際、尼崎の海からこの地蔵様のあった場所を検証しました。方向的には鴻応山(678.9m)方面は見えますので、

今は、高い建物が多く立っていて、見え難いですが、地図上で見ますと充分見えますが、
石英閃緑岩の白さが、月夜の日などは月の光で照らされ、輝いていたのが想像できます。
地蔵菩薩様は、日本人に最も親しまれている仏様と言えます。菩薩様で、お釈迦様が亡くなって56億7千万後に弥勒菩薩が修行中で如来様になるまで不在の為、お地蔵様が人々の苦しみを救済すると信じられている。道端に鎮座しているのを見かけると、可愛らしい姿に心が惹かれ思わず立ち止まって手を合わせたくなります。地獄の賽の河原(死んだ子供が行く所と言われる三途の川の河原)で、子供たちの味方をする話が有名です。幼くして亡くなった子供は地獄に落とされ、罰として、賽の河原で地獄の鬼に石を積まされます。残された親たちはどうする事も出来なく、お地蔵さんが親代わりになって、子供を救ってくれるのです。仏教では、人間の世界は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天と六つの世界(六道)から成り立っていると考えられ、お地蔵さんはすべての世界を渡り歩いて、人々を救ってくれると言われています。お地蔵様の「よだれかけ」「頭巾」は赤色です。赤色は古来から魔除けの色とされ、赤ちゃんの産着に使われてきました。赤は小さな子供を連想させる色とも言われています。
参考:「豊能町の石の文化財」豊能町教育委員会発行

②来て見て良かった 初谷渓谷

豊能郡豊能町は近畿の「へそ」と言われる所に位置し、町章は、町の発展と各地域の調和、浮き出る木の葉4枚を表現していて、山、川、樹木、野草、棚田、石、美しい自然環境が多く、歴史もあります。その自然の中で美しい吉川、川尻地区の初谷渓谷をシリーズで紹介します。
 初谷渓谷は1985年に名付けられた超丹波帯と言われる地層で、古生代ペルム紀(2億9900万~2億5100万年前)から中生代三畳紀(2億5190万~2億130万年前)箕面や能勢、高槻あたりにも分布していて、主に泥岩と砂岩から出来ています。従いまして、柔らかい地質なので崖くずれが多く発生します。また、泥岩、砂岩を利用して硯の原料に使用されたとの言い伝えもあります。

 初谷川の清流と周辺の里山は「大阪みどり百選」選ばれ、能勢妙見山を源流として西に上杉尾根、南に光明山、天台山の伏流水が吉川地区の下の町を上流として、ときわ台、光風台、笹部を通り一庫で大路次川と合流し猪名川に注ぎ込む。一庫までは10㎞余りの川です。わずか60数年前までは初谷川の水でお米を作ったり、物を洗ったりと貴重な資源でした。しかし、大雨が降ると砂防ダムなどの水のコントロール設備がなかったため、川は濁流となり石が流れてきて川は埋まり岸や橋は流され大きな被害がありました。やがて、高度成長期に入り砂防ダム(砂防堰堤)やコンクリートの護岸工事が施工され、下流での被害はなくなりました。一方で魚たちは堰堤を登れず、海まで卵を産みに行くうなぎ等は絶滅になりました。アカザ、メダカ、ドジョウ等は人家や農薬を使用する田んぼのない上流においても減少や絶滅傾向です。このような環境の変化に対応できなかったと思われます。今では水質が綺麗な証拠としてサワガニ、カワヨシノボリ、ドンコが生息し、また、ホタルが年々増加傾向にあるのが嬉しいことです。
 初谷渓谷は妙見山ハイキングコースになっています。妙見口駅(能勢電鉄)より初谷橋→奥橋→府道4号線→妙見山山頂まで約5.9㎞、約2時間30分のコースです。ハイキングコースには、「緊急通報ポイント」看板を箕面消防本部が設置しています。道迷い、山火事、事故が発生したら119番通報時に「コース名」「ポイント番号」を伝えて下さい。また、今後、コースの場所等この番号で記載します。

 コースは溪谷コースで、平地より気温は3~5℃低く夏季は汗をあまりかくことない。川沿いに、せせらぎの音を聞き、野鳥のさえずりを聞きながら、爽やかなハイキングが出来る。

野鳥は年間95種類が飛来して来る。
 能勢電鉄妙見口駅より15分ぐらいで最初に奥橋がありこの橋を渡ると、右手にコミナミ水路堰(せき)がある。ここの河原は川も浅瀬で、低学年の家族づれが、水遊びをするのには絶好の場所であり、BBQなどしている。コミナミ水路の水嵩、流れの速さを見ると、初谷川の状況が判断できる。しばらく行くと一番目の堰堤を通り過ぎ、BBQ広場が見えてくる。広い川岸があり、週末には車でキャンプ、ピクニック客が多く来訪している、多い日には100名以上が来ている。訪れている人々は、年代も10才代から70才代、一人から、家族連れ、グループ(5名から20名位が多い)。
 また、能勢電鉄主催の妙見ハイクには300名以上の参加がある。参加者は地元はもとより、大阪市、豊中市、吹田市、川西市、神戸市、京都市他14地域(平成30年5月調べ)から来ている。年々来訪者が多くなっており、特に能勢電鉄主催妙見ハイクには若い女性グループが増加傾向にある。
 №3を過ぎると、右手に「キツネノカミソリ」が7月下旬に咲き、今では多くの人が楽しみにされ、認知されるようになった。
 二番目の堰堤が見えてきて、この当たりは初谷渓谷で一番高く約20mの溪谷である。豪雨の跡の堰堤に落ちる水の音は迫力があり、音源はfffである。
 杉、檜の木の林間を通りながら、小石の多い道をしばらく行くと、令和2年4月1日に完成した「初谷渓谷憩いの場」に到着。タマゴとキバ&巨大原人の足跡のモニュメントが見えてくる。

その後、大きな5番目の堰堤(ここは川尻地区に入っている)を右下に見て歩いていくと、№11の最初の沢渡り地点に来る。この沢渡りは12~13ケ所ある。大雨の後などは流れが速く、水に濡れながら渡って行く。バランス良く渡らないと川の中に落ちそうになるので、ついつい力が入る。結構スリルがあり、自身の運動神経が試される所でもある。

 冬期は、コースには落葉樹の落ち葉が沢山積もり、まるで絨毯の上を歩いているようで、冬の静けさの中でカサカサと言う音が寂しくも、一人で歩いていると心地が良い。雪は25~30㎝ぐらい積もり、木々の枝は積もった雪の重みで折れそうになる。時々、鹿、猪が通った足跡が残っている。
 

しばらく行くと、№13付近の左上の杉林を見上げると、押せば倒れそうな絶妙のバランスで、奇岩の人面岩が座している。
 №14付近には右側の法面に2ケ所間歩(鉱山の試掘後)がある。 

№15からは杉林の中を川沿いに登っていくとリスに出会うかも知れなく、また、初谷川の源流があり、最終の№21(府道4号線)に到着する。ここで初谷渓谷コースは終了であるが、左方向に20~30分に登っていくと、妙見山に到着する。


①初谷渓谷の国蝶オオムラサキ

 初谷渓谷は昔ながら里山として、昆虫類、植物にとっては絶好の山であった。
ただ、近年炭焼き、草刈りを止めて人が山に手を掛けないようになってから、木々も雑木林の状態になり、残念ながら生態系が変わってしまいました。

 日本昆虫学会が準絶滅危惧種に制定され、この初谷も4年前にある人の進言で「初谷のオオムラサキは絶滅するで」と言われ、向井勝氏(吉川在住)が初谷渓谷入り口にある場所に「オオムラサキ」の飼育ゲージを作られました。
 飼育は大変難しいのですが、今年もその美しい蝶々が100頭(数えるのは頭です)以上羽化し、7月初めに吉川幼稚園の園児とBBQ広場で一緒に放蝶しました。大変喜んでくれました。
 初谷の「オオムラサキ」は美しいのが有名で、昔は溪谷の中を飛び回っていたようです。
 私の蝶々の好きな知人は若い時から能勢電に乗って、オオムラサキは空高く飛んでいるため、なかなか捕れなかったが良く鑑賞に来ていました。彼が今年、何十年ぶりかに見に来て、大変感激していました。
 オオムラサキは「エノキ」和名「榎」アサ科エノキ属、落葉広葉高木で樹高15m~20mの木で育ちます。初谷渓谷の里道沿いに大きなこの木が10数本あります。

 一年一世代で、成長過程は
1令幼虫(7月中旬~下旬)、2令幼虫(8月初旬~中旬)、3令幼虫(8月中旬~10月下旬)、4令幼虫(11月上旬~4月下旬)5~6令幼虫(4月下旬~5月下旬)、サナギ(5月下旬~6月中旬)、成虫、産卵(6月中旬~7月中旬)になります。
①左写真:来年へと命を繋ぐため、産卵します
 卵塊といって一度に多くの卵を産みます。生みたてはとても綺麗な色をしています。自然界では、卵からの生存率は0.5%程度と言われる過酷な世界です。
②越冬幼虫(11月~3月下旬)落葉したエノキにひっついて、じっとしていて冬を越す。
③4月ごろ暖かくなってくると、冬ごもりから目覚めエノキに登る。4令幼虫がエノキの芽吹を待っている。
④4令から5令幼虫へ:昆虫の皮膚は固く、殆どのびない(外骨格)。脱皮しなければ体は大きくならない。外骨格を持ったことが4億年も前から生き続けられた戦略の一つと考えられる。この時期、葉っぱをもりもりと多く食べ、蛹になる徐々に体制を作っていく。
⑤蛹:幼虫から成虫に変わる大事な時で、葉の裏側に保護色で葉の色や葉脈と同じ色で、強力粘着剤が付いている様に葉にひっつき殆ど落下はしない。この時期天敵に襲われるので逃げることが出来ないので、天敵を感知すると、命を守るためブルブルッと大きく体を動かす。約3~5分で羽化し、それから体液を体中に送り、翅をのばしたり口吻を一本にしたりして体をしっかりさせます。飛び立つのは羽化後約4~6時間後です。


⑥殻から頭を出す

⑧オオムラサキは♂が約1週間先に羽化し♀が羽化するのを待っている。♀が羽化するのと直ぐにパートナーを探し、交尾、産卵する。


⑨種の保存するため、命を繋ぐため交尾をします。


⑩令和2年7月2日、吉川保育所の園児と一緒に、初谷渓谷のBBQ広場で沢山のオオムラサキが生まれてくることを願い放蝶をしました。
毎年、4月ごろより、初谷飼育ゲージで担当者が主に土・日(不定期)観察しておりますので、お声をかけて頂ければゲージの中まで入って頂き、案内します。
初谷では6月20~25日頃に羽化し、♂の大変綺麗なムラサキ色の翅を見る事が出来ますので、ぜひ見に来てください。
参考:国蝶・オオムラサキ
つくろうオオムラサキが舞う里山空間 兵庫丹波オオムラカキの会発行