機織り姫と猪名津彦②

その頃、倭国では応神大王が大江(今の淀川)の河口を扼(おさえ)るように大隅宮に住まわれており、住之江の軍港は、戦いを勝利に導いていました。いくさ神、航海の神である住吉の神の小国には、大王の母君の神功皇后が祀られています。
百済から、大王は多くの戦利品や生口(敵の捕虜・奴婢)たちを伴って帰国しましたが、望んでいた「立て織」と呼ばれるはた織りの複雑な機械と、それを操るという「織女」を得ることは出来ませんでした。
応神大王が王子の頃、母の言葉に「吾が朝、開けし時より鷲の糸を採り、麻を植え、苧(ちょ)を求め、絹布を成せりとはいえ、裁縫の家を知らず、衣縫う姫を求めたきものよ。」と耳にしていましたが、見つかりませんでした。
その時代、百済の国では、わずか48年の間に5人もの国王が次々と亡くなり、代わるという情勢不安が続いていました。
一族の将来を考えて、阿智主(あちのおみ)と呼ばれる漢人の長は、一族と、漢字のわかる七姓の漢人達を率いて、応神大王を慕って、はるばる海を越えてこぞってやって来ました。大王は、その願いを受け入れ、使主(おみ)の号を与えて一族を大和(奈良県)に住まわせました。子孫の漢直(あやのあたい)を漢字を読める役人として用いました。これが漢字と書かれる始めです。倭語で、「あや(文字の事)」とよびました。
その阿智使主に、応神大王は思い出されるように話されるのでした。「そなたのいた、百済の国は、仏教とやらが伝わった(372年)という高句麗と、盛んに肩を並べようとしておるようだが、呉国(当時の古い中国を指す語)から、呉服(くれは)と申す美しい着物も伝えられたと耳にしたのだが、倭国にても作らせたいと願っておる。それを織りだす「立て織」と呼ばれるはた織りと、それを操るという「織女」を、百済の国から求めて来ては下さらぬか。ひとつ使主として、そなたの人望と力をお貸しくださらぬか。」と申し出られました。阿智使主はさっそく息子の都賀使主(つかのおみ)とも相談して、お受けすることにしました。
当時、文明流出は他国交渉の手段にされていた時代です。容易に機械とその技師を他国に渡すようなことはしません。その時の百済の王は、応神大王の命で、倭に礼を失した辰斯(しんし)王(392年歿)を倭の四宿祢たちが出向いて、殺させ、これを継いだばかりの阿花王(あかおう)でした。
仁徳大王に阿花王は、太子の直支(とき)を倭国の人質に遣わし(397年)、倭王と関係を修復し、新羅・高句麗の圧力に対抗していました。特に応神大王の名声は広く知られ、好太王の碑文にまで書かれています。阿花王は、阿智使主らの申し出に、応神大王の「もしその賢き人あれば奉れ」とあり、今後の事を考えて悦び、さっそくミニチュアの複雑な立て織機を金属で作らせ、さらにその技術に長じた兄媛・弟媛の姉妹と、穴織姫・呉織姫の二女をつけて、阿智使主らに託し、渡航させました。
帰路、阿智使主らは沖ノ島の海の関所で、宗形神を祀る首長に兄媛を捧げ、瀬戸内に無事入ることが出来ました。   (つづく)

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