機織り姫と猪名津彦3

そして、新羅を攻めた軍船が航海神として祀られている敏馬(みぬめ)の港に寄港しました。ここまで4ヶ年もかかりました。そこで神酒を頂いていますと、応神大王がお亡くなり(394年歿)になられたと、次の寄港先難波の津より知らせが入りました。
阿智使主は、織女らを求めるように王命があったことを伝えましたが、四年も前の大王の命令を引き継いでいる者がいませんでしたので仕方なく、武庫の港に上陸して、指示を待ちました。織女らは、しばし松原に出て、松に身を寄せて、今さら帰るわけにもいかず、百済の故郷を偲んだのでした。それで、ここに後に織姫大明神として小社が祀られています。
使主としての苦労が報われないと知ると、阿智使主は、船の舳先を武庫から猪名川に向け、古江の港へと向かわせました。そのあたりは、為奈野(いなの)と呼ばれ、阿智使主が連れてきた漢人もいて、のちに仏教伝来後、坂上寺(はんじょうじ、半町の語源となる)を建立します。
為奈野の笠原に、都賀使主の母たちが住んでおり、百済から連れて来られた伽耶(かや)の須恵器職人もいて、桜井谷に都賀使主の子孫桜井宿祢祖の爾波伎直(にはきあたい)の下で窯業生産(のちに桜井谷古窯群と呼ばれる)を始めています。
曳き船を泊めて、穴織姫・呉織姫らと上陸したところを唐船ヶ渕として名が伝えられています。高句麗に伝わってきた仏の像を船旅の御守りに携えてきましたが、仏教もまだ知らなかったので、無事船旅が終えられたことを感謝して、この渕に沈めるのでした。
さて、仁徳大王がこの事をお知りになられ、阿智使主は大王に弟媛を捧げました。そして、奈伊良野(今の新稲)に穴織姫の織殿、平尾に呉織姫の縫殿が建てられ、ここに二人の姫をすまわせ、この地をはた織発祥の地としたのです。奈伊良野には桑の木が植えられ、養蚕がどの農家の天井裏でもおこなわれました。
織殿では、あのミニチュアをもとに大きな立て織と呼ばれるはた織りの複雑な機械が造られ、据え付けられました。染殿の井と、後に呼ばれる絹糸を染める時に用いる清い水を汲む井戸も作られました。唐池や唐古川の名はこの頃名づけられました。
後に渡来人達の機織りの里だったので「ハタ郷」と呼ばれ、「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」辞書に「秦上郷」「秦下郷」と書かれました。それで、阿智使主(漢氏)の子孫たちは、ここでは秦氏を名乗っています。
この後、仁徳大王が亡くなられた時(399年)、住吉国の仲皇子が王位をねらって反乱を起しました。この時、阿智使主らは、履仲大王(倭王讃)を助け出され、その功で蔵の官職となり、明石に領地を賜りました。蔵郷といいます。そして、阿智使主は404年に亡くなりました。その墓が西稲の初音塚といわれます。(つづく)

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