機織り姫と猪名津彦4

初音塚(現箕面市稲)は江戸時代の「山崎通分間延絵図」(文化4年)に描かれています。
都賀使主が429年に亡くなり辰の宮(今の瀬川神社の地)に祀られました。
反正大王(はんぜいおおきみ 倭王珍)は、猪名津(後の稲津)の港を経営して、為奈野を開いた二人の死を惜しまれ、二人に「猪名津彦」の名を勅諡(ちょくし)され、大明神とされました。その後、神社として猪名津彦神社が字平井に、為奈野神社が西稲に祀られました。
後に池田に穴織神社が祀られますと、この境内に猪名津彦神社が平井から移されました。
明治の神社統廃合でなくなりましたが、穴織神社・呉織神社などは残されています。池田市章には、この染殿の井の井桁紋が用いられています。
阿智使主が亡くなった年のこと、履仲大王(りちゅうてんのう 倭王讃)は阿智使主の業績を偲ばれ、弟媛(おとひめ)に百済の綾錦(あやにしき)を織るように命じられました。
弟媛はさっそく阿智使主が愛しておられた穴織姫・呉織姫らの協力を求め、彼女たちに任せようと思い、真っ白な絹糸を納めて荷とし、使いを送りました。 阿智使主はすでになく、墓は稲の使主邸跡に営まれ、阿智王塚と呼ばれていました。高津宮から船で猪名津(稲津)にやって来た弟媛の使いは、まず、むかし阿智使主にお世話になったので、この阿智王塚に参り、桑の木の広がる奈伊良野にある機御殿にやって来ました。
弟媛からの手紙には、この使いに吉祥日までに綾錦を織って献上させてほしいという事が書かれていました。そこには、王様のご命令なので、期日が定められているとも書かれていました。
寿命寺呉服姫2 穴織姫はすぐに呉織姫と力を合わせて、仕事に入りました。糸を染殿の井で洗い、美しい染め色に仕上げ、それぞれの色別に糸が絹掛けの松に干されて乾かせられ、糸巻にまかれていきました。
そしていよいよ、織殿で織り始められました。踏み木を踏むと紐で結ばれている綜絖(そうこう)が下がり、縦糸が上下に分かれ、その隙間に杼(ひ)で横糸を通します。筬(おさ)で横糸を縦糸にしっかり織り込みます。
パタパタコトン、パタパタコトン…この音こそが「ハタ織り」という名になったんや。
ところが、その日に限って織り上がりが思うように進まず、日も沈み、まだ織りあげることが出来ません。穴織姫・呉織姫は途方に暮れ、窓から見える星空をみつめていました。すると、急に空の星という星が満天に輝きだして、顔を明るく照らし始めました。「しとね戸を開けましょう。」と、二人は、この明るいうちに大急ぎで織ろうと、織殿のすべてのしとね戸を跳ねあげました。するとどうでしょう。星御門に諸星が天下って、そこから星くずのような光がしとね戸をくぐって、室内のあちこちをキラキラと照らし、輝き、まるで昼のように明るくなったのでした。こうして、期日に間に合うことができたのでした。 翌日、使いの者に昨夜の不思議な星明りが美しかったことを話しましたが、そんなことがあったとは、だれも知りませんでした。
これは、阿智使主が穴織姫・呉織姫の二人をとても愛しまれておられたので、助けられたのだといわれますが、今も星が降りて来たとされる所に星御門(建石町)が祀られています。
この場所は、阿智使主がお亡くなりになられた時、毎夜ここから光が発せられて、星明りよりも明るくなったといわれる場所です。
阿智使主がこの地を開かれた時、はるばる百済から犬養物部とともに連れてきて大切にされていた愛犬が死にました。
阿智使主は、七夕の牽牛(けんぎゅう)・織女の話を思い出され、草履を千足編んだ牽牛が、これを積み上げて天に登って行きましたが、あと一足作っていなかったため、天上に上がれません。その時、かわいがっていた犬も登ってついてきて、牽牛が困っているのを察し、最後の踏み台になってくれました。こうしてようやく天上に上がれた牽牛は、織姫に会うことが出来、また、犬は主の帰宅を待って死にます。この話を愛された阿智使主は、愛犬をしのばれ、墓を作ってやることにしました。その犬の墓だったといわれています。
主が亡くなった時に、それを待っていたかのように光がこの墓から毎夜放出され、都賀使主の住む竜の井がある辰御門(現瀬川神社)に達し、使主はびっくりしたといわれます。
すると、天から声がして、水底に伏している龍をお呼びになり、なんと、辰御門にある龍の井から、阿智使主を載せて、龍が勢いよく愛犬と共に天上に昇って、はるか北極星に向かって消えて行って、阿智使主は星になられていますのや…。
それで、かつての星御門を「星の宮」、辰御門を「辰の宮」と呼ばれたといいますのや。

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