猪名のにし東

【執筆者紹介】箕面史学会会長の飯島さんは、元箕面市立郷土資料館館長をされ、北摂の郷土史家でもあり、漢文が専門。博物館学芸員資格も取得され、日本考古学協会員でもあります。旧石器や縄文時代の研究もされ、「新修大阪府史」別巻の執筆や、著書に「箕面の説話・道教と北摂」が著名です。高山右近や役行者・徳本行者・了翁など北摂に関与した人物そして、考古学など、民話のみではなく、豊富に語っていただければと、お願いしました。なお氏は、日本善行会より「自然と文化財愛護の善行表彰」で全国表彰を受け、川西市・豊能町・箕面市で教鞭をとっておられました。既に古希を迎えられて、郷土民話研究第一人者です。

「猪名のにし東」  執筆にあたって 箕面史学会会長 飯島正明
 文化財保護法では、「国民の基礎的な生活文化の特色を示すもの 第6項 口頭伝承・伝説・昔話」とあり、民話もここに位置づけられます。
 古い民話・伝承が現代まで残され、語り継がれて来たことを考えますと、その作者はすでに存在せず、その時代、その時代に民衆が力点を変えながらも、自分達の郷土史の中に、言外の共感を内在しあい、その存在価値を認めつつ、その生命を失うことなく語り伝えてきたのです。民話・伝承はやはり、郷土史をふまえて解釈し、再話し、現代なお求められる力点を加え、再構築して、我々がその生命を吹き込まなければ、その生命を失い、過去のものとなってしまうでしょう。こうして用意された民話・伝承を次世代に与えることによって、郷土史や文化の厚み、祖先、目に見えない存在、自然、風土が一体となって、身近に感じられ、そこからの理解がなされていくのではないでしょうか。
 文字化されず、口頭伝承され、郷土に育まれてきた民話・伝承には、土くささや、風習・信仰・願望・娯楽・自然への畏敬の念・更に教育的、道徳的内容すら加わっていました。また、病人、人身御供、のろい、障害者、精神異常者、荒唐無稽・反道徳的行為まで語られました。それが、現代、我々が耳にし、あるいは活字に見る民話・伝承では何度も検定を加えたように消え、ほとんどが骨と皮だけといわれ、また、全国不特定の対象に語られ、あたりさわりのない内容です。 
 語り継がれてきた民話・伝承は、子供たちだけのためにあったのではありません。そして、同じ郷土に生きる我々にアイデンティティを育て、共感を共有しあって、その場その場にあわせ、絆を感じあいながら、フレキシブルに語られるものだったのです。原稿があるわけではなかったのです。その話術を心得た語り手が多数いたのです。それは寝る時、外で遊べない日、人が集まった日、余興であったり、祭りの余話など、その信頼された語り手から語り継がれてきたのです。地域の継承者として、こうした地域文化を育む手法を持つ民話の再生を、皆さんと共に望みます。
そこで、地域を知る共有教材として、絆として、私は現代の民話を「アイデンティティを育む地域の文化財として総合的に再話していくもの」と提言し、実行しております。民話は、万人がそれぞれ力点を用意して語ってきたものなのです。地域の御賛同者が増え、若い人たちにも、この試みが利潤抜きで広がることを期待しています。
 ここに、「猪名のにし東」と題しまして、再話するための取材やネタを含めてご紹介していきます。まずは、「天狗」を1年間、語らせて頂きますが、お付き合い下さい。
*劇の写真は昭和55年高山分校学芸会で源右衛門が中下浦君、天狗が大下浦君で今は立派なおじさんです。吉川の越智さんも見に来て頂きました。

猪名のにし東 21世紀の民話その19「青葉の笛」

 箕面の滝から五十町ほど山奥に進むと、道もなくなってさらに進んだ所に、白雲の昇る美山があって、その麓はマキやヒノキの原で、その山奥を目を凝らしてじっと見つめていますと、朽ちた木立の隙間に、かれこれ何年にもなろうかという、古いお寺がチラリと見えることがあります。その寺こそが神仙境に建っている仙人の住むお寺であります。 ここに、歳を取ることを忘れた童子姿のままの一人の仙人が、やがて天上からの迎えを待っていました。かれこれ150年になるといいます。この童子というのは、宇佐八幡の地で生まれましたが、五歳で相次いで父母をなくし、十一歳で法華経を授かって、これを毎日三部ずつ三年ほど読んでいましたが、わが身に絶望して、ただ、冥土で今も苦しんでおられる両親をお救い下さいと、日が暮れるのも忘れて法華経を読経していました。すると、普賢菩薩が化身となって八十歳ほどの老僧の姿で現れ、「わしについて来るもよし、来なずともよし。」というので、ここにいても、ついて行っても、何も変わらない、この老僧について行ってみようと思い、ついて行きました。僧は、そこから西へ西へと進み、摂津昆陽野から箕面の山に至り、さらにその奥へと入って、避名の山へと導きました。そして、ここに草庵を営み、畑を作り、その法華経の読経を続けるようにすすめたのでした。こうして、一人ここに住んでその修行をしていますと、やがて童子が読経を始めますと、天上から音楽とともに白雲に乗った天女たちが舞い降り、一木一草、小石に至るまですべてが仏となって唱和する声が谷中に響き渡るようになりました。このようにして過ごしていますと、何年たっても年を取らず、仙人となったのでした。
 この童子に、「いま、都に法華経の智者となった者が現れた。そなたは、その者の日ごろの願いを叶えてまいれ。」と、世尊様がおっしゃった。
 君に忠、親に孝、そして幼年からの法華経持経者を「法華経の智者」といいます。仁明天皇の頃、在原業平は法華経の智者といわれ、宮廷貴族としての教養豊かな教育を受けて育ち、芸能・歌道・宗教・弓馬・学問を一通り身に着け、仁明天皇に早く仕え、若くしてその勅願寺「不退寺」の開基にもなっています。(880年歿75歳)
 この二十歳のころの業平の前に、「あなたは今、法華経の智者になられました。日ごろの願いをお聞きいたしましょう。」と言って現れます。
 その現れ方は、いきなり業平の前に現れたのではありません。百鬼夜行するといわれる京の夜道に夜な夜な、笛吹き童子として、まず現れたのです。21世紀の箕面の民話として、再話致しましょう。
 謎の笛の音
 仁明天皇さまが世を治めておられた頃、帝は管弦の中でも特に笛がお好きでな、笛が聴きとうなると、業平はんをお呼びなさった。業平はんは笛の楽曲はすべて吹き尽くし、どのような曲でも楽譜なしで吹きこなしたんや。それで帝の覚えもめでたかった。
 そんなある夜、都の朱雀門近くで笛の音が聞こえ、むかし道行く笛の音に合わせて、朱雀門の上から鬼が笛を吹いたというけれど、それとはまったく違って、例えようのないほど美しい音色で、その美しい響きが澄み渡って遠くまでも伝わり、これを聞いた者が都中にいた。そんなことが毎夜続いた。たちまちその評判が笛のお好きな帝のお耳にも入ったんや。帝は、これは誰よりも笛の音を聞き分けられる業平はんにこっそり探させて、召し連れて来させようと思われた。業平はんを呼び出されて、特に許しを出され、そのためわざわざ宣旨も持たせなさった。これに逆らえる者はない。
 夜中に屋敷内や通りでも笛吹く者はあり、業平はんは早速その夜から広い都を聴き歩きはった。そして、朱雀門と云うことはなく、確かに毎夜どこからともなく、とびぬけて美しい音色の笛の音がする。せやけど、見つからへんので、帝に見つけ出すことはできませんと報告するんやが、ますます帝は聞きたくなるばかりで、重ねて褒美をとらすと宣旨に書き加えなさった。帝は、このことで業平はんと会われることが多くなり、業平はんが登れば大事な時でも中断されて、会われ、昨夜の曲は何であったかとか、それを吹いて聞かせよとか、どこで聞こえたかとか、その技量はいかほどかとか、お好きな笛の話題が続くのやった。

 9月10日余りのこと、月は隈なく、雁金の数まで見える夜やった。この夜も業平はんは笛の音を求めて、神泉苑のほとりまでやって来ますと、かすかにあの笛の音が聞こえてきましたんや。いつものように近づくことは出来るけど、いっこうにその笛吹く姿は見えない。
それでも業平はんは、この日は笛も持参で、たとい魔性変化の鬼であろうとも、帝の宣旨が懐に有る。帝のお召であるぞと伝えねば、御役目全うできないと、勇気を奮い起こして笛の音の聞こえるのに合わせて、自分も笛を吹き合わせてみた。今までよりも笛の音に近づくことができ、これはもしやと希望を持ったが、姿らしきもの影が見え、都の出口四塚辺りまで来ると、夜が白んできてその姿も笛の音もしなくなった。がっかりして、この事を帝に奏上するのやった。帝はその笛の音を聞いてみたくなるばかりで、良い方法も浮かばなかった。
 すると、それから間もない、大変夜更けに、この夜は特に都の家々も静まり、月が隈なく照らしている様は、更科や姥捨山、須磨明石の浦といった名所まで遠く見えるかと云う透明な月明かりがして、例の笛の音が大極殿の東の河原にしたかと思うと、帝のお部屋にもそれが届いてきた。いつもより少し趣深げで、百廿帖ある笛の秘事を尽くして聞こえてきたんや。帝をはじめ殿上人は寝奥の玉すだれの内で感涙を流さないものはいなかった。それでも笛吹く姿は見えなんだ。
 その翌日宮中ではこのうわさで持ちきりになり、こっそり探しておられた帝も、業平はんをお呼びになられて、公卿たちの多くおられる前で、改めてその者を捜し出すよう、お命じになられた。業平はんはそれからと云うもの、以前より必死になって、百鬼夜行するといわれる都の大路と云わず小路まで、毎夜尋ねること十日、廿日と続いた。
笛吹き童子
 今日も法華経を一部ずつ、お経をあげる日課の業平はんは、幼い時から法華経を信じられ、ふと、法華経を信じる者は必ず釈迦如来の御弟子となり、願いもかなえられるということが頭によぎり、なんとか、この願いをおかなえくださいと、祈念深くお経をあげられた。
 その夜のこと、いつものように笛のする方へとたどっておりますと、東寺から羅城門の方へと訪れ、笛の音がそこで休んでいる間に、業平はんはようやく追いつくことができたんや。こんなことは初めてや。そして、初めてその姿を見ることができたんや。
 十六、七歳であろうか、稚児姿でこの世にないほど気品があり、美しいこと限りなく、童顔で露を含み、柳のような髪を風になびかせ、姿も形も麗しくたおやかである。業平はんは、鬼神でも魔性変化でもないことは、笛の音にこめられた情感からある程度確信していましたが、月明かりに紅葉重ねの衣を唐装束の上にうちかけ、浅い沓を履いて、さらに西へと下る道を歩いていく。これを身を隠しつつ跡をつけたんや。
 鴨川と桂川と淀川の三川の合流して大江となる、淀の西にある水無瀬河原の東のほとりに、大きな古寺があり、そこへこの笛吹き童子が入っていった。永く人の住んだ跡のない苔の生える田道の寂しい所やった。童子がその荒れ果てた泉水ではあるけれど、花は季節を知って咲き乱れている中にたたずんでいる。その姿は普通の人間ではなく、絵にも筆にも尽くせない。どうしてこれ以上私の心を惑わせるのかと、恐ろしさを忘れ、これまでの思いを伝えようにも、言葉にも出ず、呆然として立ち尽くしていますと、童子が云うには、「おことが、ずっと都からわらわをつけて来られたことも、今のお気持ちもわらわにはすべてお見通しです。わらわは、おことが思っておられる通り、この世の常の者でございません。実は飛行も姿を隠すことも思いのまま。わらわに叶えてほしいことがござれば必ずおかなえいたしましょう。これも世尊様の思し召しでごさいます。」と、穏やかに語りかけられた。若い業平はんは、「みどもは、先の帝より孫に当たりその名を賜りし在原の五男業平と申します。幼きより帝にお仕え申し、今上陛下のいます内裏に夜昼となくお仕え致しております。帝のお覚え近頃篤く、中でもこのたび宣旨を賜り、都に夜な夜な聞こえる不思議の笛の音、この世のものと思えぬと仰せになられ、ぜひとも尋ねて参らせよと、選りにも選って、みどもに仰せ遣わされ、この上もなき名誉とあなた様を捜して今までありました。然るところ、実はみども、永年笛を愛して、我朝の数ある楽譜を吹きつくし、極めましたが、貴公の笛を知り、これまで一度もこのような有難き笛を聞いたことがなく、笛を合わせるたびに身どもの笛の腕が上がる心地して、恥ずかしながらもすっかり虜になってしまっておりました。」と言うと、童子はにっこりして、「一切経に数ある中で法華経こそは優れ、有難き経なり。されば諸経中の王。また、そなたは笛を極め、その覚えが帝に篤く、私のこの笛は、十六管弦中の王ともいうべき優れて深き音色なり。この二つ、その志を尽くして怠らない、みどもの思った通りのおことであった。ゆえにおことの願いをかなえ申すのです。」と、そこまで言われた業平はんは驚いて、「笛の一つはさておきまして、不思議なことを申されます。もう一つのみどもが幼きより法華経を深く信じ居りますこと、何ゆえ御存知なのでしょう。みどもは唐の書が読めるようになってより、13歳の歳から意味もわからないうちに法華経を誦じ始め、それより毎日の読誦は今も怠りません。さて、おことは、釈迦如来様の仮のお姿であられましょうか?」と問うと、童子は、「それほどの者ではござりませぬ。わらわは摂津国箕面山寺のさらに奥にて永年住む者にてございます。今、おことと言の葉を交わし、親しくなることができました。このうえは、明日の夜、この場所にて、必ず出会って、わらわの栖家へお連れ申しましょう。」と、深く約束されたのやった。
 月も次第に傾いて夜明けを告げる遠くの鐘が聞こえ、里々の鶏も何度か声が聞こえてきたので、童子は二枚の青葉の見える笛を取り出して、業平はんにも勧めはるので、業平はんも笛を取り出して、二人笛を合わせるように吹き、心の感傷の響きが伝わりあって、天人が今にも迎えに来るような趣やった。名残は惜しいけれど、明日の暮れぞと、何度も何度も約束して、童子は空へ飛び去った。業平はんはその姿が途中で見えなくなるまで見送って、直ちに内裏へと戻り、奏上されたのは言うまでもない。
 月も山の端に傾き、夜もほのぼのと明けてきたので、童子は、「今は早や帰られよ。」と、名残惜しそうに言われた。「箕面寺までお送り致しましょう。いつまでもこうしてはいられないのです。まことに名残惜しうござります。」と、はるかに分け入って来た元の道を二人で抜けると、ほどなく駒の置いた所に出て、そこから馬に乗って滝まで送られると、童子は、「御身の三つの徳とは、第一については、先に申しました法華経を信じて来られたこと。あとの二つは、親に孝、君に忠です。この事によって、この世では帝のお覚え並々でなく、身分の卑しきも尊きも、男女の別なく、共に末代まで御身の名が残るでしょう。わらわも天上にて、おことの来られるのをお待ちしております。必ず再会致しましょう。」と、深く名残を惜しんで互いの別れを惜しみ、そこで別れて童子は仙界へと帰られた。
青葉の笛

 業平はんは、都に帰ると、今か今かとその報告を待っておられた帝に、その一つ一つの不思議な出来事を語られたのであります。そして、青葉の二つ生えたその笛を献上して、それをご叡覧なさり、童子には会えずその笛を聴くことは出来なかったけれど、これぞ他に二つとない霊宝なるぞと、宮中深く納められた。その後、帝は業平はんにお喜びの印をとりそろえて、箕面にお遣わしになられたが、ついに仙人の姿も栖も見つかることはなかった。 
その後、業平はんは、青葉の笛を帝の前で奏されたばかりか、おそれ多くもめでたいこと限りなく、法華経の功徳によって、今生では栄華を開き中将となられ、後生は天上にて生まれられた人として、人々の夢の中に見られたといいまっせ。心ある人は、業平はんのようにありたい、なりたいと、うらやましく思われ、語り継がれたそうな。また、それから300年もしてから、仙人が赴かれた弥勒浄土に届くように、箕面の滝の上に法華経を如法浄写して供養埋納されたというで…。

猪名のにし東 21世紀の民話その15 日月大高不動尊①

むかし、下止々呂美がキリシタン大名高山右近はんの領地やった時があったんや。
 平安時代から日本最高の大学が置かれたとこて、どこか知ってまっか?せや、比叡山や。延暦寺言いまんな。 ここに高い学問を修め、また、学ぶ若い僧がいましたが、織田信長はんが焼いて、たくさんの僧たちを殺してしまいはった。それだけやのうて、伊勢や加賀、大坂石山寺の一向宗や浄土真宗本願寺派の仏教徒や信徒と戦って、たくさんの人々が殺されたんや。
 下止々呂美村は、八つ岡に比叡山の浄土寺の末寺があって、同じ名前を称して浄土寺て言いました。ここの寺が地頭を置いて、年貢を取り立ててましたんや。ここの名主さんや地頭に任命された武士たちは、浄土寺に帰依して、入道を名乗ってました。
 ところが、浄土寺が焼けてしもて、再建する間もなく本山である比叡山が焼かれてしもた。ちょうどそんな頃、信長はんは高槻に高山右近はんをキリシタン大名として認めはって、教会を建ててもよい、キリシタンを広めてもよいと言いはった。その父、高山ダリオはんは、隣村の高山村から出て、キリシタンになりはって、高山村や余野村や川尻村などにキリシタンを広めはったんや。せやけど、下止々呂美村は、浄土寺の大日如来様を信じてるものが多くて、キリシタンにならなんだ。

 信長はんが死んで、その弔い合戦が山崎でおましてな。右近はんが一番槍の手柄を立てたんや。そのほうびに、下止々呂美やら能勢が右近はんの領地になったンや。そのうえ、高槻に右近はんが安土からセミナリオと言うて、キリスト教の神学校を移しはって、そこに神学生と教授が来ましたんや。ここでイエズス会の高い教育を受けて、一生独身を通して布教する、日本人宣教師を育てたんやな。ここの教授と言うたら、ローマ教皇が日本に布教する許可をした優秀な宣教師を送ってきたんや。
 その教授に、ヨーロッパからはるばる日本で死ぬつもりでやって来たビセンテはんがいました。ビセンテはんは日本の宗教を深く研究し、日蓮宗の高い学問を修めた僧と信長はんの前で論争しても負けないほどのイルマンを育てました。信長はんは、当時の僧の多くが妻を持ち、女や酒を寺に入れ、領地を持って、城館のような寺に住み、僧兵を雇い、人を殺させ、スパイのようなことを仕事にし、さらに、一向宗の一揆を扇動して戦わせることを憎んでいました。清貧な宣教師たちが日本に信者のいる限り、死ぬまでいる覚悟でいることを知ってました。それで、日本の僧よりはるかにましと考えて、キリシタン布教を許したんやろな。
 右近はんの能勢の領地を全部キリシタンにさせようと意気込んでいましたんや。それが、下止々呂美村だけがならなかった。そこで、ビセンテはんは、もう一人の教授フォルナレトはんと下止々呂美にやってきました。
 これまで近村では、釈迦三尊信仰や地蔵尊信仰をしていましたが、大日如来様と不動尊様を信仰する下止々呂美の人々にビセンテはんは、大天使ミカエルという話をして心を奪ったのや。

「大天使ミカエル様は、悪魔を踏みつけ、天から追放し、ゼウス様の命令で軍隊を率いて戦い、人々を守り、死んだ人の魂をアーケロン川で清めて天国に導いてくれる。ゼウス様がこの世に初めて人間をお作りなさった、そのアダムの魂を天に導いたのがミカエル様で、そればかりか、マリア様の魂も天国に無事送り届けられるのを見届けたのです。右手に剣を持って、左手に悪魔を縛り付ける綱をもつ。これこそ、今日まで、あなた方の心から信じてこられた大日菩薩様のお姿を変えられた不動尊様とまったく同じ天使です。心は同じなのです。信じなさい。そうすれば、貴方達の魂は、ハライソつまり天国に救われましょう。貴方達の死後至る賽の河原は、キリスト教のアーケロン川のことでしょう。ここで、死んだばかりの魂を裁くのが大天使ミカエル様です。ミカエル様に祈りなさい。ミカエル様は天使たちの中の最高の天使です。ザビエル様が日本に初めてお伝えになったとき、日本の国の守護天使とされました。よこしまな者はすべて捕え、或いは打ち倒し、或いは生かすのです。今の乱世を清めたまえと祈ろうではありませんか。アーメン。」と語りましたんや。これには、お寺を失っていた入道たちも、高槻の殿さんがすすめはるキリシタンになって、改宗して信じたくなったんやな。こうして、右近はんの領地内は、ことごとくキリシタンになったということや。
ビセンテはんはローマに報告しています。「天正13年、能勢の領地内を全村キリシタンとすることに成功した。」と。
高槻の殿さんがおらんようになって、代官の安威シモンとかいう殿さんが、なんでも清水というとこからダミアン・ロケというバテレンさんを呼んで、ここらや山の信者の世話させはった言うから、しばらく信仰が続いておりました。バテレン追放令を秀吉はんが突然いい出してな、セミナリオも九州へ行ってしもてなぁ。それからほとんどの信者は仏教にもどった。
ほんで、キリシタン弾圧が始まって、日本中からキリスト教の記憶が完全に消されてしもた。マタタビノ水の谷川の上手の籔の中に隠されて残った「日月大高不動尊」の石像は、あの時の名主達の名を10名刻んで、天使の羽根のついた不動尊様を大天使ミカエル様と信じて立てられたもんや。その名前の意味は、「いつも世界中を照らしている偉大な不動尊」「常に守護してくれる不動尊」というんやそうやけど、キリシタンの人は、「太陽や月のように天上から人間を守護してくれる大天使ミカエルの不動尊さま」と信じなすったとか…。この大高というのがな、大天使の大やろ、みかぅぇるの高つまり、だいかぅやな。うまいこと漢字二文字で名前つけたもんや。せやから残ったんやな。ロケはんかて良慶や。高山のジュリアナかて自庵とか西蓮やで。それもこれも忘れられていったんやな。
そんなことがあっても、信じる心は変わらんよってな。今も、お不動さんとして村人に親しまれ、縁日は28日や。霊験あらたかで信仰されています。悪さしたらあかんで…。
この話しが知られてから、地域の文化財や言うて、誰ともなしに「エンゼル不動さん」と、21世紀に呼ばれるようになったンや。9月29日には、キリスト教の人がたまにお花を供えにやってきます。ミケルマス言うそうや。なんせ日本の守護天使は、ここしかあれへんで。
今は、キリシタンの名残は全くなくなってしもたなあ。ほな、またナ、これでおしまい。

猪名のにし東

止々呂美のまたたび

むかし(1538年頃)、止々呂美の豊楽寺観音堂に三年ほど滞在し修行された満誉(まんよ)という浄土宗の和尚さんは、六年経ってから池田でお寺を建てはった。不断(ふだん)山瑞雲院西光寺(天文15年1548建立)といいます。
不断念仏するお堂(三昧堂)やったんを、念仏往生を願う村人に乞われて再建しはったンや。なんでも知恩院の徳誉大僧正の嫡弟で祐圓和尚さんのことやそうな。
ある日、西光寺の桜の木の根っこを枕にして、なんと豊楽寺の十一面観音様が寝っ転がっておられるのを下止々呂美の村人が見つけ、びっくりして、「和尚さん、わしらの村の観音様が、あんなとこに寝てらっしゃるで」と知らせましたんや。驚いた和尚さんは、「不思議なこと、あるもんやな、これは、南無南無…」と、観音様を背負われて、村人達と池田道を途中、村境の地蔵さんで一休みして、そばを流れる渓水をすくってのどを潤し、それからその日のうちに豊楽寺に送り届けはった。
数十日すると、また、おんなじことがありましたんや。「こんな不思議なことが、二度もあるもんじゃな、南無南無…」と、今度も背負うて届けなさった。和尚さんは、豊楽寺に留まりはって、丁寧に今度は七日の祈祷をお篭(こも)りして、観音様が落ち着きはるように祈りはった。
ところが、この不思議なことが三度ありましてな。それは和尚さんが初めて豊楽寺に来はってから20年目(永禄元年1558)の春のこと、また、西光寺の境内の草の上に安らかそうに十一面観音様が横たわっておられるのを、これまた、下止々呂美の村人が池田に荷をしょってやってきた時に見つけ、「和尚さん、わしらの村の観音様がまた、寝ておられるでぇ」と申し出ました。「決して、わしらがしょって来たンとちゃいまっからナ。これは、おかしいで」と、言うと、和尚さんも、「うーん」と考え込みはって、「どうじゃ。この観音様をここの西光寺に安置して、お守りさせてはもらえまいか」と申し出はった。村人達は、「村に帰って、この事をみんなで相談してみましたけンど、今日の所は、仏の顔も三度とかで、ひとつ和尚さん、しんどうてえらいでっしゃろが、また、おぶったっていただけませんやろか」とお願いした。
和尚さん、肩にかけてえっちらおっちら、もう歳やさかい、休みながら、村境の地蔵さんで小川の水をひと飲み休んでから、豊楽寺まで送りましたんや。
その翌年(1559年)8月6日、高徳で慕われはった祐圓和尚さんが示寂(しじゃく)されました。
それから間もなく、下止々呂美の西の所焼けという大火事があり豊楽寺が焼けてしまいました。正平のご一統(1351年)、持明院光明天皇のお后が、北畠顕能の御所侵入の八幡合戦で、亡くなり、そのお弔いをされたお寺です。 観音様が本尊で、皇后はんの像や裏に光明皇后の石塔(宝篋印塔)と古墳がおました。村人達は、悔やみました。「あの時、和尚さんの言いはる通りにしてたら、せめてあのきれいな観音様だけでも、ご無事やったのに…」
すると、止々呂美を流れる余野川の下流、十八町(約2㎞)ほどにある細川村の久安寺の近くに何やら、仏さんが浮いてる言うンや。村人達五人ほどで見に行ったら、何やら仏像が淵に留まって、浮いたり沈んだりしている。「アッ、豊楽寺の観音様や!」悔やんでいた村人達は、もう相談もせんと、観音様を救い上げ、みんなで交替交替背負って、池田の西光寺迄お連れしました。「あれほど、満誉和尚さんを慕って、何度も西光寺まで旅しはった豊楽寺の観音様を、今、村にお堂もなくなって、なんとか、西光寺にお守りしていただいてはどうやろかと、お連れしましたんや」とお願いしました。ま、こうして、観音様が、今も西光寺におられるンやけどな。
村人達が「よかったよかった」言うて、池田道の帰りしな、祐圓和尚さんがよく休んでおられた村境のお地蔵さんで一服していると、池田に向かって歩いたはだしの足跡が点々とあるのを見つけ、「あれ、これって、観音様の足跡ちゃうか」「せや、せやで。火事の後、久安寺までようよう旅しはったンや。足に傷してはった」「前にも三度旅してはるもんな」「ほな、また旅しはったンや」と、この話しが村中に知れ渡って、いつしか、この村境を「またたび」と呼ぶようになりましたンや。そして、この渓流の水を「またたびの水」と呼び、山の湧き水やさかい、、名水やな。せやけど、トンネル出来てから、水脈が切れてしもたわ。池田道沿いの田んぼに水が来んようになって、今は、箕面治水ダムから水引いてるしまつや。マタタビ言うたら、旅人が旅に疲れたとき、マタタビノ実を食べたら、元気になるというので、その木の名前やけどな。
西光寺の十一面観音様は、小野篁という仏師の名が刻まれているそうな。はだしで足を少し怪我されておます。
光明皇后はんを弔ってから200年もたって、ほったらかしになっていたお寺を万里小路秀房卿息徳誉大僧正の嫡弟の祐圓和尚さんが留まりはってから、この観音様が和尚さんをお慕いなさったんやろな。ほんま、優しい和尚さんやったな。でもな、こんなに高徳のお坊さんが亡くなると、その成仏を妨げる悪魔がいてな、観音様お一人だけでは浄土へ導かれなんで、先に火事になってしもたンとちがうかな。お不動さんがその悪魔を斬り倒し、和尚さんの魂を導いてくれはって、地蔵さんが三途の川を渡してくれはったンや。観音様はたいへん喜びはりましたそうや。それで、またたびの地にお地蔵さんとお不動さんが祀られて、道行く人は手を合わせて通るようになったンや。霊験あらたかで、悪さしたら、たたると言われてます。大事にしなはれや。
ほな、またお話しするわ。

池田町と木部の間隠れ里 摂津有馬の湯山権現

柳田国男の「山島民譚集」から北摂の民話を二話紹介します。   文は飯島正明
池田町と木部の間隠れ里
摂津豊能郡細川村大字木部と池田町との中間に一つの隠れ里があってな、この里に万福長者が住んでおったが、とうとう亡くなって、その跡があると「摂陽群談」に書かれておるんや。
その隠れ里の入口は洞穴やそうで、なんでも、その穴というのが古墳の横穴で、中に入ったら石の船がおいてあるんや。そこが竜宮の入り口やそうな。その船は石の棺桶やねんけど、竜のおるところまで行くそうな。そこへ行って打出小槌をもろうて帰って、長者になったというので、打出村という名はここから起こったといわれているんや。
長者は滅んでしもうて、もうだいぶ経ちますさかい、隠れ里もわからんようになってしもうたけど、その場所で物を拾うたら、その人は必ず幸せになるいうて、今も信じられてますんや。そこを見つけたかったら、地上に耳を伏せて聞いてみい、酒宴饗応のうらやましい音が聞こえるんや。隠れ里の音やそうな。今でもそういわれているで。
摂津有馬の湯山権現
阿波の領主三好修理太夫長慶の弟に勇猛果敢な十河一存(そごうかずまさ)という武士が痘瘡を煩ってな、有馬の湯に養生に来たんや。おとなしく湯につかっとればいいものを、具合の良くなった一存が有馬権現に馬で参詣に行こうとしたところ、みんなが「有馬権現様は馬を嫌ってはるから、馬に乗って行かん方がよろしいでしょう。やめときなはれ。」と止めるのを、おしてなぁ、立派な葦毛の馬に乗んなさって、ここの山を登りはったんや。ほなら案の定、途中で馬が何をきらったのか、馬が急に暴れだしてな、落馬しはったんや。国へ帰りはって程なく、病に伏せって亡くなりはった。1561年(永禄4年)の春24才の若さでしたなあ。
摂津有馬の湯山権現さんは、この山の地主神でな。むかし女人の姿になって、麓で遊んでおられた。
ある時、摂津守護なにがしがタカ狩りしてたんやが、この権現さんの姿を一目見たので、馬に乗って近づこうとしたら、どんどん山の奥へと入っていくので追いかけたところ、怪しく思い、矢をつがえて射なはったそうな。すると、その咎(とが)で、この武士は命を落としはったそうや。それで、この山に弓・矢・馬で入ったらな、必ず山が荒れて稲妻・雷があるといわれておるんや。

機織り姫と猪名津彦4

初音塚(現箕面市稲)は江戸時代の「山崎通分間延絵図」(文化4年)に描かれています。
都賀使主が429年に亡くなり辰の宮(今の瀬川神社の地)に祀られました。
反正大王(はんぜいおおきみ 倭王珍)は、猪名津(後の稲津)の港を経営して、為奈野を開いた二人の死を惜しまれ、二人に「猪名津彦」の名を勅諡(ちょくし)され、大明神とされました。その後、神社として猪名津彦神社が字平井に、為奈野神社が西稲に祀られました。
後に池田に穴織神社が祀られますと、この境内に猪名津彦神社が平井から移されました。
明治の神社統廃合でなくなりましたが、穴織神社・呉織神社などは残されています。池田市章には、この染殿の井の井桁紋が用いられています。
阿智使主が亡くなった年のこと、履仲大王(りちゅうてんのう 倭王讃)は阿智使主の業績を偲ばれ、弟媛(おとひめ)に百済の綾錦(あやにしき)を織るように命じられました。
弟媛はさっそく阿智使主が愛しておられた穴織姫・呉織姫らの協力を求め、彼女たちに任せようと思い、真っ白な絹糸を納めて荷とし、使いを送りました。 阿智使主はすでになく、墓は稲の使主邸跡に営まれ、阿智王塚と呼ばれていました。高津宮から船で猪名津(稲津)にやって来た弟媛の使いは、まず、むかし阿智使主にお世話になったので、この阿智王塚に参り、桑の木の広がる奈伊良野にある機御殿にやって来ました。
弟媛からの手紙には、この使いに吉祥日までに綾錦を織って献上させてほしいという事が書かれていました。そこには、王様のご命令なので、期日が定められているとも書かれていました。
寿命寺呉服姫2 穴織姫はすぐに呉織姫と力を合わせて、仕事に入りました。糸を染殿の井で洗い、美しい染め色に仕上げ、それぞれの色別に糸が絹掛けの松に干されて乾かせられ、糸巻にまかれていきました。
そしていよいよ、織殿で織り始められました。踏み木を踏むと紐で結ばれている綜絖(そうこう)が下がり、縦糸が上下に分かれ、その隙間に杼(ひ)で横糸を通します。筬(おさ)で横糸を縦糸にしっかり織り込みます。
パタパタコトン、パタパタコトン…この音こそが「ハタ織り」という名になったんや。
ところが、その日に限って織り上がりが思うように進まず、日も沈み、まだ織りあげることが出来ません。穴織姫・呉織姫は途方に暮れ、窓から見える星空をみつめていました。すると、急に空の星という星が満天に輝きだして、顔を明るく照らし始めました。「しとね戸を開けましょう。」と、二人は、この明るいうちに大急ぎで織ろうと、織殿のすべてのしとね戸を跳ねあげました。するとどうでしょう。星御門に諸星が天下って、そこから星くずのような光がしとね戸をくぐって、室内のあちこちをキラキラと照らし、輝き、まるで昼のように明るくなったのでした。こうして、期日に間に合うことができたのでした。 翌日、使いの者に昨夜の不思議な星明りが美しかったことを話しましたが、そんなことがあったとは、だれも知りませんでした。
これは、阿智使主が穴織姫・呉織姫の二人をとても愛しまれておられたので、助けられたのだといわれますが、今も星が降りて来たとされる所に星御門(建石町)が祀られています。
この場所は、阿智使主がお亡くなりになられた時、毎夜ここから光が発せられて、星明りよりも明るくなったといわれる場所です。
阿智使主がこの地を開かれた時、はるばる百済から犬養物部とともに連れてきて大切にされていた愛犬が死にました。
阿智使主は、七夕の牽牛(けんぎゅう)・織女の話を思い出され、草履を千足編んだ牽牛が、これを積み上げて天に登って行きましたが、あと一足作っていなかったため、天上に上がれません。その時、かわいがっていた犬も登ってついてきて、牽牛が困っているのを察し、最後の踏み台になってくれました。こうしてようやく天上に上がれた牽牛は、織姫に会うことが出来、また、犬は主の帰宅を待って死にます。この話を愛された阿智使主は、愛犬をしのばれ、墓を作ってやることにしました。その犬の墓だったといわれています。
主が亡くなった時に、それを待っていたかのように光がこの墓から毎夜放出され、都賀使主の住む竜の井がある辰御門(現瀬川神社)に達し、使主はびっくりしたといわれます。
すると、天から声がして、水底に伏している龍をお呼びになり、なんと、辰御門にある龍の井から、阿智使主を載せて、龍が勢いよく愛犬と共に天上に昇って、はるか北極星に向かって消えて行って、阿智使主は星になられていますのや…。
それで、かつての星御門を「星の宮」、辰御門を「辰の宮」と呼ばれたといいますのや。

機織り姫と猪名津彦3

そして、新羅を攻めた軍船が航海神として祀られている敏馬(みぬめ)の港に寄港しました。ここまで4ヶ年もかかりました。そこで神酒を頂いていますと、応神大王がお亡くなり(394年歿)になられたと、次の寄港先難波の津より知らせが入りました。
阿智使主は、織女らを求めるように王命があったことを伝えましたが、四年も前の大王の命令を引き継いでいる者がいませんでしたので仕方なく、武庫の港に上陸して、指示を待ちました。織女らは、しばし松原に出て、松に身を寄せて、今さら帰るわけにもいかず、百済の故郷を偲んだのでした。それで、ここに後に織姫大明神として小社が祀られています。
使主としての苦労が報われないと知ると、阿智使主は、船の舳先を武庫から猪名川に向け、古江の港へと向かわせました。そのあたりは、為奈野(いなの)と呼ばれ、阿智使主が連れてきた漢人もいて、のちに仏教伝来後、坂上寺(はんじょうじ、半町の語源となる)を建立します。
為奈野の笠原に、都賀使主の母たちが住んでおり、百済から連れて来られた伽耶(かや)の須恵器職人もいて、桜井谷に都賀使主の子孫桜井宿祢祖の爾波伎直(にはきあたい)の下で窯業生産(のちに桜井谷古窯群と呼ばれる)を始めています。
曳き船を泊めて、穴織姫・呉織姫らと上陸したところを唐船ヶ渕として名が伝えられています。高句麗に伝わってきた仏の像を船旅の御守りに携えてきましたが、仏教もまだ知らなかったので、無事船旅が終えられたことを感謝して、この渕に沈めるのでした。
さて、仁徳大王がこの事をお知りになられ、阿智使主は大王に弟媛を捧げました。そして、奈伊良野(今の新稲)に穴織姫の織殿、平尾に呉織姫の縫殿が建てられ、ここに二人の姫をすまわせ、この地をはた織発祥の地としたのです。奈伊良野には桑の木が植えられ、養蚕がどの農家の天井裏でもおこなわれました。
織殿では、あのミニチュアをもとに大きな立て織と呼ばれるはた織りの複雑な機械が造られ、据え付けられました。染殿の井と、後に呼ばれる絹糸を染める時に用いる清い水を汲む井戸も作られました。唐池や唐古川の名はこの頃名づけられました。
後に渡来人達の機織りの里だったので「ハタ郷」と呼ばれ、「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」辞書に「秦上郷」「秦下郷」と書かれました。それで、阿智使主(漢氏)の子孫たちは、ここでは秦氏を名乗っています。
この後、仁徳大王が亡くなられた時(399年)、住吉国の仲皇子が王位をねらって反乱を起しました。この時、阿智使主らは、履仲大王(倭王讃)を助け出され、その功で蔵の官職となり、明石に領地を賜りました。蔵郷といいます。そして、阿智使主は404年に亡くなりました。その墓が西稲の初音塚といわれます。(つづく)

機織り姫と猪名津彦②

その頃、倭国では応神大王が大江(今の淀川)の河口を扼(おさえ)るように大隅宮に住まわれており、住之江の軍港は、戦いを勝利に導いていました。いくさ神、航海の神である住吉の神の小国には、大王の母君の神功皇后が祀られています。
百済から、大王は多くの戦利品や生口(敵の捕虜・奴婢)たちを伴って帰国しましたが、望んでいた「立て織」と呼ばれるはた織りの複雑な機械と、それを操るという「織女」を得ることは出来ませんでした。
応神大王が王子の頃、母の言葉に「吾が朝、開けし時より鷲の糸を採り、麻を植え、苧(ちょ)を求め、絹布を成せりとはいえ、裁縫の家を知らず、衣縫う姫を求めたきものよ。」と耳にしていましたが、見つかりませんでした。
その時代、百済の国では、わずか48年の間に5人もの国王が次々と亡くなり、代わるという情勢不安が続いていました。
一族の将来を考えて、阿智主(あちのおみ)と呼ばれる漢人の長は、一族と、漢字のわかる七姓の漢人達を率いて、応神大王を慕って、はるばる海を越えてこぞってやって来ました。大王は、その願いを受け入れ、使主(おみ)の号を与えて一族を大和(奈良県)に住まわせました。子孫の漢直(あやのあたい)を漢字を読める役人として用いました。これが漢字と書かれる始めです。倭語で、「あや(文字の事)」とよびました。
その阿智使主に、応神大王は思い出されるように話されるのでした。「そなたのいた、百済の国は、仏教とやらが伝わった(372年)という高句麗と、盛んに肩を並べようとしておるようだが、呉国(当時の古い中国を指す語)から、呉服(くれは)と申す美しい着物も伝えられたと耳にしたのだが、倭国にても作らせたいと願っておる。それを織りだす「立て織」と呼ばれるはた織りと、それを操るという「織女」を、百済の国から求めて来ては下さらぬか。ひとつ使主として、そなたの人望と力をお貸しくださらぬか。」と申し出られました。阿智使主はさっそく息子の都賀使主(つかのおみ)とも相談して、お受けすることにしました。
当時、文明流出は他国交渉の手段にされていた時代です。容易に機械とその技師を他国に渡すようなことはしません。その時の百済の王は、応神大王の命で、倭に礼を失した辰斯(しんし)王(392年歿)を倭の四宿祢たちが出向いて、殺させ、これを継いだばかりの阿花王(あかおう)でした。
仁徳大王に阿花王は、太子の直支(とき)を倭国の人質に遣わし(397年)、倭王と関係を修復し、新羅・高句麗の圧力に対抗していました。特に応神大王の名声は広く知られ、好太王の碑文にまで書かれています。阿花王は、阿智使主らの申し出に、応神大王の「もしその賢き人あれば奉れ」とあり、今後の事を考えて悦び、さっそくミニチュアの複雑な立て織機を金属で作らせ、さらにその技術に長じた兄媛・弟媛の姉妹と、穴織姫・呉織姫の二女をつけて、阿智使主らに託し、渡航させました。
帰路、阿智使主らは沖ノ島の海の関所で、宗形神を祀る首長に兄媛を捧げ、瀬戸内に無事入ることが出来ました。   (つづく)