猪名のにし東

【執筆者紹介】箕面史学会会長の飯島さんは、元箕面市立郷土資料館館長をされ、北摂の郷土史家でもあり、漢文が専門。博物館学芸員資格も取得され、日本考古学協会員でもあります。旧石器や縄文時代の研究もされ、「新修大阪府史」別巻の執筆や、著書に「箕面の説話・道教と北摂」が著名です。高山右近や役行者・徳本行者・了翁など北摂に関与した人物そして、考古学など、民話のみではなく、豊富に語っていただければと、お願いしました。なお氏は、日本善行会より「自然と文化財愛護の善行表彰」で全国表彰を受け、川西市・豊能町・箕面市で教鞭をとっておられました。既に古希を迎えられて、郷土民話研究第一人者です。

「猪名のにし東」  執筆にあたって 箕面史学会会長 飯島正明
 文化財保護法では、「国民の基礎的な生活文化の特色を示すもの 第6項 口頭伝承・伝説・昔話」とあり、民話もここに位置づけられます。
 古い民話・伝承が現代まで残され、語り継がれて来たことを考えますと、その作者はすでに存在せず、その時代、その時代に民衆が力点を変えながらも、自分達の郷土史の中に、言外の共感を内在しあい、その存在価値を認めつつ、その生命を失うことなく語り伝えてきたのです。民話・伝承はやはり、郷土史をふまえて解釈し、再話し、現代なお求められる力点を加え、再構築して、我々がその生命を吹き込まなければ、その生命を失い、過去のものとなってしまうでしょう。こうして用意された民話・伝承を次世代に与えることによって、郷土史や文化の厚み、祖先、目に見えない存在、自然、風土が一体となって、身近に感じられ、そこからの理解がなされていくのではないでしょうか。
 文字化されず、口頭伝承され、郷土に育まれてきた民話・伝承には、土くささや、風習・信仰・願望・娯楽・自然への畏敬の念・更に教育的、道徳的内容すら加わっていました。また、病人、人身御供、のろい、障害者、精神異常者、荒唐無稽・反道徳的行為まで語られました。それが、現代、我々が耳にし、あるいは活字に見る民話・伝承では何度も検定を加えたように消え、ほとんどが骨と皮だけといわれ、また、全国不特定の対象に語られ、あたりさわりのない内容です。 
 語り継がれてきた民話・伝承は、子供たちだけのためにあったのではありません。そして、同じ郷土に生きる我々にアイデンティティを育て、共感を共有しあって、その場その場にあわせ、絆を感じあいながら、フレキシブルに語られるものだったのです。原稿があるわけではなかったのです。その話術を心得た語り手が多数いたのです。それは寝る時、外で遊べない日、人が集まった日、余興であったり、祭りの余話など、その信頼された語り手から語り継がれてきたのです。地域の継承者として、こうした地域文化を育む手法を持つ民話の再生を、皆さんと共に望みます。
そこで、地域を知る共有教材として、絆として、私は現代の民話を「アイデンティティを育む地域の文化財として総合的に再話していくもの」と提言し、実行しております。民話は、万人がそれぞれ力点を用意して語ってきたものなのです。地域の御賛同者が増え、若い人たちにも、この試みが利潤抜きで広がることを期待しています。
 ここに、「猪名のにし東」と題しまして、再話するための取材やネタを含めてご紹介していきます。まずは、「天狗」を1年間、語らせて頂きますが、お付き合い下さい。
*劇の写真は昭和55年高山分校学芸会で源右衛門が中下浦君、天狗が大下浦君で今は立派なおじさんです。吉川の越智さんも見に来て頂きました。

猪名のにし東 21世紀の民話その19「青葉の笛」

 箕面の滝から五十町ほど山奥に進むと、道もなくなってさらに進んだ所に、白雲の昇る美山があって、その麓はマキやヒノキの原で、その山奥を目を凝らしてじっと見つめていますと、朽ちた木立の隙間に、かれこれ何年にもなろうかという、古いお寺がチラリと見えることがあります。その寺こそが神仙境に建っている仙人の住むお寺であります。 ここに、歳を取ることを忘れた童子姿のままの一人の仙人が、やがて天上からの迎えを待っていました。かれこれ150年になるといいます。この童子というのは、宇佐八幡の地で生まれましたが、五歳で相次いで父母をなくし、十一歳で法華経を授かって、これを毎日三部ずつ三年ほど読んでいましたが、わが身に絶望して、ただ、冥土で今も苦しんでおられる両親をお救い下さいと、日が暮れるのも忘れて法華経を読経していました。すると、普賢菩薩が化身となって八十歳ほどの老僧の姿で現れ、「わしについて来るもよし、来なずともよし。」というので、ここにいても、ついて行っても、何も変わらない、この老僧について行ってみようと思い、ついて行きました。僧は、そこから西へ西へと進み、摂津昆陽野から箕面の山に至り、さらにその奥へと入って、避名の山へと導きました。そして、ここに草庵を営み、畑を作り、その法華経の読経を続けるようにすすめたのでした。こうして、一人ここに住んでその修行をしていますと、やがて童子が読経を始めますと、天上から音楽とともに白雲に乗った天女たちが舞い降り、一木一草、小石に至るまですべてが仏となって唱和する声が谷中に響き渡るようになりました。このようにして過ごしていますと、何年たっても年を取らず、仙人となったのでした。
 この童子に、「いま、都に法華経の智者となった者が現れた。そなたは、その者の日ごろの願いを叶えてまいれ。」と、世尊様がおっしゃった。
 君に忠、親に孝、そして幼年からの法華経持経者を「法華経の智者」といいます。仁明天皇の頃、在原業平は法華経の智者といわれ、宮廷貴族としての教養豊かな教育を受けて育ち、芸能・歌道・宗教・弓馬・学問を一通り身に着け、仁明天皇に早く仕え、若くしてその勅願寺「不退寺」の開基にもなっています。(880年歿75歳)
 この二十歳のころの業平の前に、「あなたは今、法華経の智者になられました。日ごろの願いをお聞きいたしましょう。」と言って現れます。
 その現れ方は、いきなり業平の前に現れたのではありません。百鬼夜行するといわれる京の夜道に夜な夜な、笛吹き童子として、まず現れたのです。21世紀の箕面の民話として、再話致しましょう。
 謎の笛の音
 仁明天皇さまが世を治めておられた頃、帝は管弦の中でも特に笛がお好きでな、笛が聴きとうなると、業平はんをお呼びなさった。業平はんは笛の楽曲はすべて吹き尽くし、どのような曲でも楽譜なしで吹きこなしたんや。それで帝の覚えもめでたかった。
 そんなある夜、都の朱雀門近くで笛の音が聞こえ、むかし道行く笛の音に合わせて、朱雀門の上から鬼が笛を吹いたというけれど、それとはまったく違って、例えようのないほど美しい音色で、その美しい響きが澄み渡って遠くまでも伝わり、これを聞いた者が都中にいた。そんなことが毎夜続いた。たちまちその評判が笛のお好きな帝のお耳にも入ったんや。帝は、これは誰よりも笛の音を聞き分けられる業平はんにこっそり探させて、召し連れて来させようと思われた。業平はんを呼び出されて、特に許しを出され、そのためわざわざ宣旨も持たせなさった。これに逆らえる者はない。
 夜中に屋敷内や通りでも笛吹く者はあり、業平はんは早速その夜から広い都を聴き歩きはった。そして、朱雀門と云うことはなく、確かに毎夜どこからともなく、とびぬけて美しい音色の笛の音がする。せやけど、見つからへんので、帝に見つけ出すことはできませんと報告するんやが、ますます帝は聞きたくなるばかりで、重ねて褒美をとらすと宣旨に書き加えなさった。帝は、このことで業平はんと会われることが多くなり、業平はんが登れば大事な時でも中断されて、会われ、昨夜の曲は何であったかとか、それを吹いて聞かせよとか、どこで聞こえたかとか、その技量はいかほどかとか、お好きな笛の話題が続くのやった。

 9月10日余りのこと、月は隈なく、雁金の数まで見える夜やった。この夜も業平はんは笛の音を求めて、神泉苑のほとりまでやって来ますと、かすかにあの笛の音が聞こえてきましたんや。いつものように近づくことは出来るけど、いっこうにその笛吹く姿は見えない。
それでも業平はんは、この日は笛も持参で、たとい魔性変化の鬼であろうとも、帝の宣旨が懐に有る。帝のお召であるぞと伝えねば、御役目全うできないと、勇気を奮い起こして笛の音の聞こえるのに合わせて、自分も笛を吹き合わせてみた。今までよりも笛の音に近づくことができ、これはもしやと希望を持ったが、姿らしきもの影が見え、都の出口四塚辺りまで来ると、夜が白んできてその姿も笛の音もしなくなった。がっかりして、この事を帝に奏上するのやった。帝はその笛の音を聞いてみたくなるばかりで、良い方法も浮かばなかった。
 すると、それから間もない、大変夜更けに、この夜は特に都の家々も静まり、月が隈なく照らしている様は、更科や姥捨山、須磨明石の浦といった名所まで遠く見えるかと云う透明な月明かりがして、例の笛の音が大極殿の東の河原にしたかと思うと、帝のお部屋にもそれが届いてきた。いつもより少し趣深げで、百廿帖ある笛の秘事を尽くして聞こえてきたんや。帝をはじめ殿上人は寝奥の玉すだれの内で感涙を流さないものはいなかった。それでも笛吹く姿は見えなんだ。
 その翌日宮中ではこのうわさで持ちきりになり、こっそり探しておられた帝も、業平はんをお呼びになられて、公卿たちの多くおられる前で、改めてその者を捜し出すよう、お命じになられた。業平はんはそれからと云うもの、以前より必死になって、百鬼夜行するといわれる都の大路と云わず小路まで、毎夜尋ねること十日、廿日と続いた。
笛吹き童子
 今日も法華経を一部ずつ、お経をあげる日課の業平はんは、幼い時から法華経を信じられ、ふと、法華経を信じる者は必ず釈迦如来の御弟子となり、願いもかなえられるということが頭によぎり、なんとか、この願いをおかなえくださいと、祈念深くお経をあげられた。
 その夜のこと、いつものように笛のする方へとたどっておりますと、東寺から羅城門の方へと訪れ、笛の音がそこで休んでいる間に、業平はんはようやく追いつくことができたんや。こんなことは初めてや。そして、初めてその姿を見ることができたんや。
 十六、七歳であろうか、稚児姿でこの世にないほど気品があり、美しいこと限りなく、童顔で露を含み、柳のような髪を風になびかせ、姿も形も麗しくたおやかである。業平はんは、鬼神でも魔性変化でもないことは、笛の音にこめられた情感からある程度確信していましたが、月明かりに紅葉重ねの衣を唐装束の上にうちかけ、浅い沓を履いて、さらに西へと下る道を歩いていく。これを身を隠しつつ跡をつけたんや。
 鴨川と桂川と淀川の三川の合流して大江となる、淀の西にある水無瀬河原の東のほとりに、大きな古寺があり、そこへこの笛吹き童子が入っていった。永く人の住んだ跡のない苔の生える田道の寂しい所やった。童子がその荒れ果てた泉水ではあるけれど、花は季節を知って咲き乱れている中にたたずんでいる。その姿は普通の人間ではなく、絵にも筆にも尽くせない。どうしてこれ以上私の心を惑わせるのかと、恐ろしさを忘れ、これまでの思いを伝えようにも、言葉にも出ず、呆然として立ち尽くしていますと、童子が云うには、「おことが、ずっと都からわらわをつけて来られたことも、今のお気持ちもわらわにはすべてお見通しです。わらわは、おことが思っておられる通り、この世の常の者でございません。実は飛行も姿を隠すことも思いのまま。わらわに叶えてほしいことがござれば必ずおかなえいたしましょう。これも世尊様の思し召しでごさいます。」と、穏やかに語りかけられた。若い業平はんは、「みどもは、先の帝より孫に当たりその名を賜りし在原の五男業平と申します。幼きより帝にお仕え申し、今上陛下のいます内裏に夜昼となくお仕え致しております。帝のお覚え近頃篤く、中でもこのたび宣旨を賜り、都に夜な夜な聞こえる不思議の笛の音、この世のものと思えぬと仰せになられ、ぜひとも尋ねて参らせよと、選りにも選って、みどもに仰せ遣わされ、この上もなき名誉とあなた様を捜して今までありました。然るところ、実はみども、永年笛を愛して、我朝の数ある楽譜を吹きつくし、極めましたが、貴公の笛を知り、これまで一度もこのような有難き笛を聞いたことがなく、笛を合わせるたびに身どもの笛の腕が上がる心地して、恥ずかしながらもすっかり虜になってしまっておりました。」と言うと、童子はにっこりして、「一切経に数ある中で法華経こそは優れ、有難き経なり。されば諸経中の王。また、そなたは笛を極め、その覚えが帝に篤く、私のこの笛は、十六管弦中の王ともいうべき優れて深き音色なり。この二つ、その志を尽くして怠らない、みどもの思った通りのおことであった。ゆえにおことの願いをかなえ申すのです。」と、そこまで言われた業平はんは驚いて、「笛の一つはさておきまして、不思議なことを申されます。もう一つのみどもが幼きより法華経を深く信じ居りますこと、何ゆえ御存知なのでしょう。みどもは唐の書が読めるようになってより、13歳の歳から意味もわからないうちに法華経を誦じ始め、それより毎日の読誦は今も怠りません。さて、おことは、釈迦如来様の仮のお姿であられましょうか?」と問うと、童子は、「それほどの者ではござりませぬ。わらわは摂津国箕面山寺のさらに奥にて永年住む者にてございます。今、おことと言の葉を交わし、親しくなることができました。このうえは、明日の夜、この場所にて、必ず出会って、わらわの栖家へお連れ申しましょう。」と、深く約束されたのやった。
 月も次第に傾いて夜明けを告げる遠くの鐘が聞こえ、里々の鶏も何度か声が聞こえてきたので、童子は二枚の青葉の見える笛を取り出して、業平はんにも勧めはるので、業平はんも笛を取り出して、二人笛を合わせるように吹き、心の感傷の響きが伝わりあって、天人が今にも迎えに来るような趣やった。名残は惜しいけれど、明日の暮れぞと、何度も何度も約束して、童子は空へ飛び去った。業平はんはその姿が途中で見えなくなるまで見送って、直ちに内裏へと戻り、奏上されたのは言うまでもない。
 月も山の端に傾き、夜もほのぼのと明けてきたので、童子は、「今は早や帰られよ。」と、名残惜しそうに言われた。「箕面寺までお送り致しましょう。いつまでもこうしてはいられないのです。まことに名残惜しうござります。」と、はるかに分け入って来た元の道を二人で抜けると、ほどなく駒の置いた所に出て、そこから馬に乗って滝まで送られると、童子は、「御身の三つの徳とは、第一については、先に申しました法華経を信じて来られたこと。あとの二つは、親に孝、君に忠です。この事によって、この世では帝のお覚え並々でなく、身分の卑しきも尊きも、男女の別なく、共に末代まで御身の名が残るでしょう。わらわも天上にて、おことの来られるのをお待ちしております。必ず再会致しましょう。」と、深く名残を惜しんで互いの別れを惜しみ、そこで別れて童子は仙界へと帰られた。
青葉の笛

 業平はんは、都に帰ると、今か今かとその報告を待っておられた帝に、その一つ一つの不思議な出来事を語られたのであります。そして、青葉の二つ生えたその笛を献上して、それをご叡覧なさり、童子には会えずその笛を聴くことは出来なかったけれど、これぞ他に二つとない霊宝なるぞと、宮中深く納められた。その後、帝は業平はんにお喜びの印をとりそろえて、箕面にお遣わしになられたが、ついに仙人の姿も栖も見つかることはなかった。 
その後、業平はんは、青葉の笛を帝の前で奏されたばかりか、おそれ多くもめでたいこと限りなく、法華経の功徳によって、今生では栄華を開き中将となられ、後生は天上にて生まれられた人として、人々の夢の中に見られたといいまっせ。心ある人は、業平はんのようにありたい、なりたいと、うらやましく思われ、語り継がれたそうな。また、それから300年もしてから、仙人が赴かれた弥勒浄土に届くように、箕面の滝の上に法華経を如法浄写して供養埋納されたというで…。

猪名のにし東 21世紀の民話その15 日月大高不動尊①

むかし、下止々呂美がキリシタン大名高山右近はんの領地やった時があったんや。
 平安時代から日本最高の大学が置かれたとこて、どこか知ってまっか?せや、比叡山や。延暦寺言いまんな。 ここに高い学問を修め、また、学ぶ若い僧がいましたが、織田信長はんが焼いて、たくさんの僧たちを殺してしまいはった。それだけやのうて、伊勢や加賀、大坂石山寺の一向宗や浄土真宗本願寺派の仏教徒や信徒と戦って、たくさんの人々が殺されたんや。
 下止々呂美村は、八つ岡に比叡山の浄土寺の末寺があって、同じ名前を称して浄土寺て言いました。ここの寺が地頭を置いて、年貢を取り立ててましたんや。ここの名主さんや地頭に任命された武士たちは、浄土寺に帰依して、入道を名乗ってました。
 ところが、浄土寺が焼けてしもて、再建する間もなく本山である比叡山が焼かれてしもた。ちょうどそんな頃、信長はんは高槻に高山右近はんをキリシタン大名として認めはって、教会を建ててもよい、キリシタンを広めてもよいと言いはった。その父、高山ダリオはんは、隣村の高山村から出て、キリシタンになりはって、高山村や余野村や川尻村などにキリシタンを広めはったんや。せやけど、下止々呂美村は、浄土寺の大日如来様を信じてるものが多くて、キリシタンにならなんだ。

 信長はんが死んで、その弔い合戦が山崎でおましてな。右近はんが一番槍の手柄を立てたんや。そのほうびに、下止々呂美やら能勢が右近はんの領地になったンや。そのうえ、高槻に右近はんが安土からセミナリオと言うて、キリスト教の神学校を移しはって、そこに神学生と教授が来ましたんや。ここでイエズス会の高い教育を受けて、一生独身を通して布教する、日本人宣教師を育てたんやな。ここの教授と言うたら、ローマ教皇が日本に布教する許可をした優秀な宣教師を送ってきたんや。
 その教授に、ヨーロッパからはるばる日本で死ぬつもりでやって来たビセンテはんがいました。ビセンテはんは日本の宗教を深く研究し、日蓮宗の高い学問を修めた僧と信長はんの前で論争しても負けないほどのイルマンを育てました。信長はんは、当時の僧の多くが妻を持ち、女や酒を寺に入れ、領地を持って、城館のような寺に住み、僧兵を雇い、人を殺させ、スパイのようなことを仕事にし、さらに、一向宗の一揆を扇動して戦わせることを憎んでいました。清貧な宣教師たちが日本に信者のいる限り、死ぬまでいる覚悟でいることを知ってました。それで、日本の僧よりはるかにましと考えて、キリシタン布教を許したんやろな。
 右近はんの能勢の領地を全部キリシタンにさせようと意気込んでいましたんや。それが、下止々呂美村だけがならなかった。そこで、ビセンテはんは、もう一人の教授フォルナレトはんと下止々呂美にやってきました。
 これまで近村では、釈迦三尊信仰や地蔵尊信仰をしていましたが、大日如来様と不動尊様を信仰する下止々呂美の人々にビセンテはんは、大天使ミカエルという話をして心を奪ったのや。

「大天使ミカエル様は、悪魔を踏みつけ、天から追放し、ゼウス様の命令で軍隊を率いて戦い、人々を守り、死んだ人の魂をアーケロン川で清めて天国に導いてくれる。ゼウス様がこの世に初めて人間をお作りなさった、そのアダムの魂を天に導いたのがミカエル様で、そればかりか、マリア様の魂も天国に無事送り届けられるのを見届けたのです。右手に剣を持って、左手に悪魔を縛り付ける綱をもつ。これこそ、今日まで、あなた方の心から信じてこられた大日菩薩様のお姿を変えられた不動尊様とまったく同じ天使です。心は同じなのです。信じなさい。そうすれば、貴方達の魂は、ハライソつまり天国に救われましょう。貴方達の死後至る賽の河原は、キリスト教のアーケロン川のことでしょう。ここで、死んだばかりの魂を裁くのが大天使ミカエル様です。ミカエル様に祈りなさい。ミカエル様は天使たちの中の最高の天使です。ザビエル様が日本に初めてお伝えになったとき、日本の国の守護天使とされました。よこしまな者はすべて捕え、或いは打ち倒し、或いは生かすのです。今の乱世を清めたまえと祈ろうではありませんか。アーメン。」と語りましたんや。これには、お寺を失っていた入道たちも、高槻の殿さんがすすめはるキリシタンになって、改宗して信じたくなったんやな。こうして、右近はんの領地内は、ことごとくキリシタンになったということや。
ビセンテはんはローマに報告しています。「天正13年、能勢の領地内を全村キリシタンとすることに成功した。」と。
高槻の殿さんがおらんようになって、代官の安威シモンとかいう殿さんが、なんでも清水というとこからダミアン・ロケというバテレンさんを呼んで、ここらや山の信者の世話させはった言うから、しばらく信仰が続いておりました。バテレン追放令を秀吉はんが突然いい出してな、セミナリオも九州へ行ってしもてなぁ。それからほとんどの信者は仏教にもどった。
ほんで、キリシタン弾圧が始まって、日本中からキリスト教の記憶が完全に消されてしもた。マタタビノ水の谷川の上手の籔の中に隠されて残った「日月大高不動尊」の石像は、あの時の名主達の名を10名刻んで、天使の羽根のついた不動尊様を大天使ミカエル様と信じて立てられたもんや。その名前の意味は、「いつも世界中を照らしている偉大な不動尊」「常に守護してくれる不動尊」というんやそうやけど、キリシタンの人は、「太陽や月のように天上から人間を守護してくれる大天使ミカエルの不動尊さま」と信じなすったとか…。この大高というのがな、大天使の大やろ、みかぅぇるの高つまり、だいかぅやな。うまいこと漢字二文字で名前つけたもんや。せやから残ったんやな。ロケはんかて良慶や。高山のジュリアナかて自庵とか西蓮やで。それもこれも忘れられていったんやな。
そんなことがあっても、信じる心は変わらんよってな。今も、お不動さんとして村人に親しまれ、縁日は28日や。霊験あらたかで信仰されています。悪さしたらあかんで…。
この話しが知られてから、地域の文化財や言うて、誰ともなしに「エンゼル不動さん」と、21世紀に呼ばれるようになったンや。9月29日には、キリスト教の人がたまにお花を供えにやってきます。ミケルマス言うそうや。なんせ日本の守護天使は、ここしかあれへんで。
今は、キリシタンの名残は全くなくなってしもたなあ。ほな、またナ、これでおしまい。

猪名のにし東

機織り姫と猪名津彦 その①

むかし阿智使主(あちのおみ)の住まいが今の箕面市西稲にあったころの話や。
「あちの塚」(初音塚)や「伊奈の笠原」や猪名津彦をまつる「為奈野神社」が西稲にありましたんや。はた織りの穴織(あやは)姫・呉織(くれは)姫の御殿も、奈伊良野(ないらの)(今の新稲から半町)に織殿(今の阿比太神社地)、平尾に縫殿があって、ここに住んでおられ、瀬川の字辰の宮には都賀使主(つがのおみ)がまつられていました。
織られる前のカラフルな糸を染めるために用いる水を汲み上げた染殿井や、染め上げた糸を干す絹掛けの松などがありました。はた織りの仕事が忙しい頃などは、街道から見える松は緑に映えて色糸で美しく見えるので、まるで別世界のように思われるのでした。こんな話、知ってましたかな。「穴織宮拾要記」に書き残されてますのや。
そもそも、中国の文字を我が国でなんで漢字と呼んでいるのか、考えたことがありますか。広い大陸で各地に使われていた漢字を統一したのが漢の時代だったから…というのは、日本人の勝手な理屈で、中国では漢字と呼んでいません(国字という)。
実は、200年に後漢が滅び、魏の国に国を譲り、国を失った漢の国の漢人たちは、新天地を求めて応神天皇のもとに、こぞって海を越えてやって来て、倭王に仕え、「上表文」など外交文書や魏国との交渉に活躍し、倭国の国際的地位を高めることに貢献したので、彼ら漢人の用いる字から自他ともに「漢字」と呼んだのが始まりです。
隻牛像調整1 その新天地を求めた時の話が伝わっています。
後漢最後の王の血をひく初代阿智王は、漢人たちの新たな地を興そうと願い、空に輝く北極星に向かって祈っていました。その時、目の前に一隻の黄牛が現れ、天から声がして、「黄牛の赴く先、一巡りして啼く地に廟を建て興すべし。」とありました。これを信じた阿智王は、その牛の背に乗って漢土を出たのでした。帯方郡に至り黄牛が旋回して一声を発したのです。喜んだ阿智王は、ここがその地と思い、離散した一族・人民を呼び集めて開墾し、村を成しました。
帯方郡は313年に高句麗に亡ぼされ、黄牛の教えのような得られるものはなく、一族の宝物も失いました。このまま長くここに居住すれば、漢人たちは滅ぼされるのでないかと思われました。
するとそこへ、391年百済の国は、倭国の大王応神と共に高句麗を攻め、好太王と戦って勝ち進んで帯方の地に達し、かつて栄えた帯方の文物を略奪して帰りました。その時これを機として、伝える名も同じ阿智吉師のもと、漢人たちは、百済・倭軍と共にこぞって百済国へ移住を決めました。
その頃倭国では、応神大王が大江(今の淀川)の河口を扼するように、大隅宮に住まわれ、住之江の軍港には、その戦いを勝利に導いた、いくさ神で航海の神である住吉の神の小国があって、大王の母君の神功皇后とともに祀られていました。こうして、大王は多くの戦利品や生口(敵の捕虜・奴婢)たちを伴って帰国しましたが、その中に、立て織と呼ばれるはた織りの複雑な機械と、それを操るという織女を得ることは出来ませんでし
た。応神大王が王子の頃、母の言葉に「吾が朝、開けし時より鷲の糸を採り、麻を植え苧(ちょ)を求め、絹布を成せりとはいえ、裁縫の家を知らず、衣縫う姫を求めたきものよ。」と耳にしていましたが、見つかりませんでした。
百済の国では、大王の頃わずか48年の間に5人もの国王が次々と亡くなられて代わるという情勢不安が続いていました。一族の将来を考えて、阿智主と呼ばれる漢人の長は、一族と、漢字のわかる七姓の漢人達を率いて、応神大王を慕って、はるばる海を越えてこぞってやって来ました。大王は、その願いを受け入れ
られ、使(お)主(み)の号を与えて一族を大和(奈良県)に住まわせました。漢(あやの)直(あたい)として漢字を読める役人としても用いました。これが漢字と書かれる始めです。倭語で、「あや(文字の事)」とよびました。

その8香坂王と 忍熊王 聖徳太子の魂鎮め

大江王の一族が没落し、その後、武内宿弥の三男の蘇我氏の祖となった蘇我石河宿弥が入ってきました。応神天皇の征討将軍になり、あちこちに転戦して手柄を挙げ、住吉の神を祭っていました。
仁徳天皇の時、住吉大社を住之江に移しました。住吉国はほとんどが神功皇后から賜った領地です。神功皇后は、海の神が随分助けてくれたことに感謝し、あちこちに海神を祭りました。明石にも「わたつみ神社」が祭られています。
しかし、履仲天皇の時、住吉国はなくなりましたが、住吉大社の領地の杣山は神木を提供し続け、200年後、聖徳太子は、仏教を国に興すため、蘇我氏と手を組み物部守屋と戦い、四天王寺建立を誓って勝利し、その建築に住吉の杣山から神木を使用しました。
太子の夢枕に大仲姫が立たれ、「ここより乾の方に紫雲の気が立つ峰の地、大柴の谷を訪ねよ。その私と我が皇子忍熊の眠る峰に寺院を建立せば、物部守屋の怨霊を取り除き、そなたの志を果たさん。」と告げられた。蘇我馬子に尋ねると、蘇我氏の祖先の住んだ所だろうと言うので、太子は愛馬の黒駒にまたがり摂津の地に来られました。そこから北の山中に紫雲が見えます。ちょうどその地は、あの忍熊王と共に入水して亡くなった将、五十狭茅宿弥の子孫の吉師胡坐一族が住んだといいます。黒駒がここに来るとピタリと蹄を止めて進もうとしません。ここに本尊仏を大仲姫のお姿の十一面観音を刻まれ、境内には吉師氏が支えた誉田別(応神天皇)の住吉社(南中山)とか(元中山)と称される「観音寺」を創建されました。№8大仲姫碑(中山寺奥の院
大柴谷に入り、大仲姫・忍熊王の陵墓の霊前に参られ、寺院建立を誓われました。
身を清め、除業障山に登られ、我孫子神所の「下の神所」に五十狭茅宿弥・倉見別宿弥を左右にその奥に大仲姫と仲哀天皇に挟まれて忍熊王が祀られました。聖水の湧出するこの紫雲山「我孫子の岳」と呼ばれている山です。今の奥の院です。「白鳥窟」といわれる御廟窟には、大柴ヶ谷から石の棺が移され、応神天皇が納められたという金銅の匣(縦横6cm余)を岩窟のより掘り出し、地主の大明神の天照皇大神を拝まれ、諸神に祈り申して鬼魔を鎮め、長卒塔婆を紫雲山の艮に立て、天には三密金剛の羅網を張り、地には五部瑜伽の智水を注ぎ、利生掲焉の結界にして三点字形に御堂を建立されました。
その後4年間、中山寺の創建に努められ、百済から渡来の恵便・恵聡を招かれて寺院の経営を依頼されたのです。我国、観音菩薩を本尊とする最初の寺院となりました。
太子は我孫子12神所の一つ「長尾富士」「烽火山」と呼ばれている「天宮山」(天宮塚)に、修験場を整え、天神を遥拝して国家安穏・仏教興隆の祈願、山上に仲哀天皇のお形代と金剛舎利を埋納、神武天皇から仲哀天皇歴代の皇霊を祭り、卒塔婆を立てられました。「天宮塚の神所」と呼ばれている地です。
その後、太子が安倉にある鳥島村を通られた時、金の鶏が羽音を鳴らし、鳴き声が空に響き、黒駒がこの音で止まりました。「過去迦葉説法の所、大般法華弘通の地」と金の鶏が三度囀り、飛び去りました。太子は「まさに聖地」四方の景色が大唐のようなので、使者を飛鳥に還し、百済の寺工に命じて七堂伽藍を創建、百済僧恵稔・舎欽・恵寔等持来の仏舎利を宝塔に納め、釈迦如来・十六善神相並び、金鶏山大蓮寺を建立されました。
太子は金銅で鶏を造られ、埋められた小塚があり、「鳥島」という地名がついています。
また、香坂王が白鳥となり、塩水の湧いた山の200m下に塩尾寺を建立されました。かくて、天皇家にとって、香坂王・忍熊王の忌まわしい思い出として思い起こされた、二人の皇子の怨霊は、聖徳太子によって鎮められ、「記紀」に語り継がれる神々と大王たちが祭られ、我孫子神所を整えられたのであります。 我国の神々が仏教の仏と神仏混交していく道をここに示されたンや。

民話その7 白鳥になった魂

応神天皇が成長し、幼い時に異母兄たちが非業の死を遂げたことや勝王の坂が香坂王に勝ったこと、その里に武内宿弥が、勝運を祝って、膳部に猪肉を毎年亥の月に供御させていることを知りました。
猪は応神天皇の守護獣と信じられ、旧暦10月の毎亥の日に岩清水八幡神社の善法院を通して木代および大円・切畑より御所に「禁裏献上能勢御玄猪餅」を供御されたといわれます。笹栗で牙骨、赤飯で赤肉と、猪肉に見立てられた珍しい縁起ものです。明治天皇はんも食べはったそうや。
ある10月の亥の日、応神天皇は、猪に滅びた香坂王が気にされ、「吾が兄香坂王の傷ましい亡骸は、武庫のいず地にあるのか。六甲の山に近頃変事が続き、湯が湧き出たのも、兄の霊が怒り狂っていると聞くぞ。住民が不安がっているようである。往きて御魂を慰めよ。」と命じました。そこで、祈祷師達が武庫山に登り、応神天皇の詔を読み上げ、香坂王と5人の臣下の御霊を慰めました。すると、山谷が鳴動して、白鳥が中天に舞い上がり、それに続いて五羽の鳥が消えました。すると、近くの泉から塩水が湧き出し、この水を霊水として身を清めると、生涯健康に過ごせると信じられました。この山を「塩わく山」と呼び、後に聖徳太子が霊を祭って「塩尾寺」を建立しました。山の祠は「砂山権現」、麓は伊孑志(いそし)と呼ばれています。
№7白鳥窟 麓の村では、何か山で変事があれば、香坂王の霊が怒り狂っていると恐れられ、その霊をお慰めする行事として、毎年「とうと祭り」(昔祭)が行われます。その年に生まれた男の子4名が身を清め、水を掛け合いして、霊を慰めるお祭りです。
また、応神天皇は、忍熊王が長い間水中に隠れてその御体を現されなかったことや、難波江に疫病が流行るたびに忍熊王の名が聞かれることを気にされ、その埋葬に当たった武内宿弥を呼び、「吾が兄忍熊王の御霊は、今もなお、この世におわされるに違いない。朕が心のほどを伝え、御霊を祀り、安らぎて来よ。」と述べ、武内宿弥を勅使として大柴ヶ谷に向かわせました。大仲姫・忍熊王の眠られる岩窟の近くを流れる河原(勅使川)で禊祓いをすませ、その岩窟の前に立って応神天皇の御心を宣伝されました。けれども何の御霊の返答もなく、宿弥は帰り、この事の始終を奏聞しました。天皇は、「忍熊王の御霊は、やはり今もなお、生きてましまされるに違いない。汝、もう一度往きて、その櫃の蓋をおし開き、そして朕が旨を伝えなさい。」と再び宿弥を大柴ヶ谷へ遣わせました。天皇の仰せのとおり、櫃の蓋をおし開いて御旨を宣べられると、なんと、櫃から白い煙が立ち上り、窟内が朦々となりました。奥からかすかな声が聞こえてきました。「天皇の御心畏く受けましょう。もう現世への恨みは捨てましょう。私の霊をいつまでもここにお祭りください。」と言い終わると窟中から白鳥が飛び出して、西北の空の方へ翔び去ったンや。
夢を見る心地で宿弥がはっと我に帰り、白鳥の後を追いました。白鳥は紫雲山の頂あたりにある高さ5mまわり20mもある一枚の大岩石の岩窟に姿を消しました。
我孫子神所の一つとしてその右側に祠が祀られています。左下方に清水の湧く所です。それで、「白鳥岩」と呼ばれるようになったンや。
応神天皇はこの霊験をお聞きになり、我孫子の峰に登られ、神功皇后が穴門豊浦宮で得られた伝世の宝珠を岩窟の下に埋められたと伝えられています。後にここから、聖徳太子が匣を掘り出され、また、近代になって、すぐ近くから同じ鋳型で造られたツインの中山銅鐸が見つかっています。
(写真白鳥塚古墳の家型石棺)

民話その6 忍熊王の最期

忍熊王は、追い詰められてしまい、五十狭茅宿弥を呼ばれ、辞世の歌を歌われました。「いざあぎ、いさちすくね、たまきはる、うちのあそが、くぶつちの、いたでおわずは、にほ鳥の、かずきせな。」(わが宿弥よ武内の朝臣の手痛い攻撃を身に受ける前にカイツブリのように水にもぐって死のうぞ。)
こうして、共に宇治川に身を投げてお隠れになったのです。武内宿弥は、「淡海の海、瀬田の済に、潜水く鳥、目にし見えねば、憤しも(瀬田に沈まれた王の姿が見えず不安だなあ)。」と歌いました。
何日も忍熊王のご遺体は上がらず、武内宿弥は毎日毎日兵士達に川を探索させました。たちまち、忍熊王が宇治川に身を投げられてお亡くなりになったうわさは広がり、それに合わせたかのように、宇治川の流れの先である淀川の河口付近、難波江のいたる所で疫病が流行り始めました。
民をよくお信じになった優しい忍熊王を知っている民たちは、皇后様の味方についた者がこの疫病に罹っているのだと、誰ともなしに言い始め、忍熊王が怨霊になられたと、「これこそ忍熊王の霊魂が祟っているのだ。」とたいへん恐れられました。
宇治川から淀川まで探索の手が及びましたが、忍熊王がようやく宇治川で見つかりました。武内宿弥はやっと安心して、「あふみのみ、瀬田のわたりに、かずく鳥、たなかみすぎて、うじにとらへつ。」(瀬田でもぐった水鳥を田上を過ぎ、宇治でようやく捕らえたよ。)と歌いました。
武内宿弥は、そのご遺体を丁寧に棺に収めさせ、大仲媛の眠られる武庫の大柴山に運ばせました。六尺余(約1.8m)の石棺に入れ、石の岩窟に納めました。これを聞いた民たちは、遠い所からも近い所からも、大柴谷へ詣で来て、岩窟が拝まれました。それでこのあたりを「拝の尾」と呼んでいます。しかし、その後も度々難波江に疫病が流行しました。そればかりでなく、香坂王と五人の家臣の埋葬された武庫山にも、度々山地異変が起こったンや。押熊八幡社の香坂王・忍熊王の祠(写真押熊八幡社の香坂王・忍熊王の祠) 現在、忍熊王は祭られていない。

民話 その5香坂王と 忍熊王

武内宿弥の宇治のだまし討ち
宇治下社(若宮)狛犬一方、多くの戦利品を乗せ、神功の船団が大和へと凱旋して、瀬戸内を西に進んで、御陵が造られたという明石の津に寄港しようとしますと、異風が吹き始め、波も逆巻き、寄せられません。そこで怪しまれた皇后は船団を二つに分けられ、生まれたばかりの皇子を抱かせて、武内宿弥の郷里、紀伊へ向かわせ、自らの船団は難波の港に寄ろうとされました。ところが、何度岸に近づけても、風向き悪く、三度もぐるぐると沖へ返され、着くことができず、仕方なく、武庫の港に向かわれました。すると、空になった船が放置され、難波の津に忍熊王の軍勢が戦いの準備をしていることを知らされました。難波の津に船をつかせないように海・風が守護してくれたことに感謝しました。そこで、皇后の軍勢が整えられ、忍熊王の軍と戦うことにしました。
一方武内宿弥の軍は、和泉路を北上し、難波根子建振熊命と一団となり、忍熊王の軍の背後から攻め上りました。忍熊王の軍と遂に戦いが始まったのです。
初め神功軍と戦っていた忍熊王の軍は、背後から武内宿弥の軍に攻められると、仕方なく、難波の地を引揚げて、大江川(旧淀川)を遡って宇治に陣を構えました。これに対して、武内宿弥の精鋭軍は山背から北側に回りこみました。これを見て、忍熊王軍の熊の凝という将が宣戦布告の歌を高らかに歌い上げました。「彼方の、あらら松原、松原に、渡り行きて、槻弓に、まり矢を副え、貴人は、貴人どちや、親友はも、親友どち、いざ闘はな、我は、闘わな、我は、たまきはる、(武)内の朝臣が、腹内は、小石あれや、いざ闘わな、我は。」(あちらに見える松林の方で、矢つがえ、貴人は貴人同士、親友は親友同士、いざ戦わん。武内宿弥の腹の中、小石は詰まってないはず。さぁ戦おう。)
この勇ましい言霊歌を聞いて、まともに戦えば敗れそうなので、武内宿弥は自軍を集結させて、「弓持つ者は、弓のつるを髪の中にひそめよ。剣を持つ者は、木刀を腰に差し、中の太刀は足に巻け。」と命じました。そして、忍熊王のいる前に出てきて、「忍熊大王はいず方におられましょうか。」と叫び、忍熊王が軍中から武将に護られて姿を見せますと、「皇后様は、私にお命じになられ、私は天下を貪ろうとしてはおりません。ただ幼い王を抱いて、忍熊王様を君主に従おうとしているだけです。どうして、ここで応戦の歌をお返しできましょう。ともに連合講和いたしましょう。吾が兵は、今より弓のつるを切り、太刀を河に投げさせます。そうして忍熊王様が直ちに王位につかれ、万機をもっぱら御取り下さい。」と言いました。その勢いで、「皆のもの、聞いたであろう。武器を捨てよ!」と大声で言うと、武将達も、「武器をすてよ!」と連呼しました。ことごとく弓のつるを切り、ことごとく太刀を深い川に投げ入れました。木刀でしたが鞘が重いのでことごとく沈んだのでした。
忍熊王は、これにはだまされてしまいました。講和の印に武器を解いてことごとく弓のつるを切らせ、太刀を河に捨てさせました。闘わないことになり、兵士達の士気はいっぺんに緩んでしまったのです。これを見た武内宿弥は、ただちに髪の毛に隠したつるを出させて弓に番えさせ、足に巻いていた太刀を握らせ、一気に川を渡って攻撃に出ました。
忍熊王が、すぐに人を信用する弱みを武内宿弥は良く知っていたのです。決定的な負けを覚った忍熊王は、五十狭茅宿弥に「弓も剣も失ってしまった。撤退しよう。」と、逢坂山へ敗走しました。武内宿弥の精鋭兵が後を追い、逢坂で追いつかれ、戦闘が始まりましたが、石を投げ、岩を落とし、木、棒の類では勝ち目なく、さざなみの栗林ではさんざんに切り殺されて、栗林に血が流れて溢れたと言い伝えられています。そのため、以後ここの栗は、これを忌み嫌って御所には供御されなくなったンや。