止々呂美のまたたび

むかし(1538年頃)、止々呂美の豊楽寺観音堂に三年ほど滞在し修行された満誉(まんよ)という浄土宗の和尚さんは、六年経ってから池田でお寺を建てはった。不断(ふだん)山瑞雲院西光寺(天文15年1548建立)といいます。
不断念仏するお堂(三昧堂)やったんを、念仏往生を願う村人に乞われて再建しはったンや。なんでも知恩院の徳誉大僧正の嫡弟で祐圓和尚さんのことやそうな。
ある日、西光寺の桜の木の根っこを枕にして、なんと豊楽寺の十一面観音様が寝っ転がっておられるのを下止々呂美の村人が見つけ、びっくりして、「和尚さん、わしらの村の観音様が、あんなとこに寝てらっしゃるで」と知らせましたんや。驚いた和尚さんは、「不思議なこと、あるもんやな、これは、南無南無…」と、観音様を背負われて、村人達と池田道を途中、村境の地蔵さんで一休みして、そばを流れる渓水をすくってのどを潤し、それからその日のうちに豊楽寺に送り届けはった。
数十日すると、また、おんなじことがありましたんや。「こんな不思議なことが、二度もあるもんじゃな、南無南無…」と、今度も背負うて届けなさった。和尚さんは、豊楽寺に留まりはって、丁寧に今度は七日の祈祷をお篭(こも)りして、観音様が落ち着きはるように祈りはった。
ところが、この不思議なことが三度ありましてな。それは和尚さんが初めて豊楽寺に来はってから20年目(永禄元年1558)の春のこと、また、西光寺の境内の草の上に安らかそうに十一面観音様が横たわっておられるのを、これまた、下止々呂美の村人が池田に荷をしょってやってきた時に見つけ、「和尚さん、わしらの村の観音様がまた、寝ておられるでぇ」と申し出ました。「決して、わしらがしょって来たンとちゃいまっからナ。これは、おかしいで」と、言うと、和尚さんも、「うーん」と考え込みはって、「どうじゃ。この観音様をここの西光寺に安置して、お守りさせてはもらえまいか」と申し出はった。村人達は、「村に帰って、この事をみんなで相談してみましたけンど、今日の所は、仏の顔も三度とかで、ひとつ和尚さん、しんどうてえらいでっしゃろが、また、おぶったっていただけませんやろか」とお願いした。
和尚さん、肩にかけてえっちらおっちら、もう歳やさかい、休みながら、村境の地蔵さんで小川の水をひと飲み休んでから、豊楽寺まで送りましたんや。
その翌年(1559年)8月6日、高徳で慕われはった祐圓和尚さんが示寂(しじゃく)されました。
それから間もなく、下止々呂美の西の所焼けという大火事があり豊楽寺が焼けてしまいました。正平のご一統(1351年)、持明院光明天皇のお后が、北畠顕能の御所侵入の八幡合戦で、亡くなり、そのお弔いをされたお寺です。 観音様が本尊で、皇后はんの像や裏に光明皇后の石塔(宝篋印塔)と古墳がおました。村人達は、悔やみました。「あの時、和尚さんの言いはる通りにしてたら、せめてあのきれいな観音様だけでも、ご無事やったのに…」
すると、止々呂美を流れる余野川の下流、十八町(約2㎞)ほどにある細川村の久安寺の近くに何やら、仏さんが浮いてる言うンや。村人達五人ほどで見に行ったら、何やら仏像が淵に留まって、浮いたり沈んだりしている。「アッ、豊楽寺の観音様や!」悔やんでいた村人達は、もう相談もせんと、観音様を救い上げ、みんなで交替交替背負って、池田の西光寺迄お連れしました。「あれほど、満誉和尚さんを慕って、何度も西光寺まで旅しはった豊楽寺の観音様を、今、村にお堂もなくなって、なんとか、西光寺にお守りしていただいてはどうやろかと、お連れしましたんや」とお願いしました。ま、こうして、観音様が、今も西光寺におられるンやけどな。
村人達が「よかったよかった」言うて、池田道の帰りしな、祐圓和尚さんがよく休んでおられた村境のお地蔵さんで一服していると、池田に向かって歩いたはだしの足跡が点々とあるのを見つけ、「あれ、これって、観音様の足跡ちゃうか」「せや、せやで。火事の後、久安寺までようよう旅しはったンや。足に傷してはった」「前にも三度旅してはるもんな」「ほな、また旅しはったンや」と、この話しが村中に知れ渡って、いつしか、この村境を「またたび」と呼ぶようになりましたンや。そして、この渓流の水を「またたびの水」と呼び、山の湧き水やさかい、、名水やな。せやけど、トンネル出来てから、水脈が切れてしもたわ。池田道沿いの田んぼに水が来んようになって、今は、箕面治水ダムから水引いてるしまつや。マタタビ言うたら、旅人が旅に疲れたとき、マタタビノ実を食べたら、元気になるというので、その木の名前やけどな。
西光寺の十一面観音様は、小野篁という仏師の名が刻まれているそうな。はだしで足を少し怪我されておます。
光明皇后はんを弔ってから200年もたって、ほったらかしになっていたお寺を万里小路秀房卿息徳誉大僧正の嫡弟の祐圓和尚さんが留まりはってから、この観音様が和尚さんをお慕いなさったんやろな。ほんま、優しい和尚さんやったな。でもな、こんなに高徳のお坊さんが亡くなると、その成仏を妨げる悪魔がいてな、観音様お一人だけでは浄土へ導かれなんで、先に火事になってしもたンとちがうかな。お不動さんがその悪魔を斬り倒し、和尚さんの魂を導いてくれはって、地蔵さんが三途の川を渡してくれはったンや。観音様はたいへん喜びはりましたそうや。それで、またたびの地にお地蔵さんとお不動さんが祀られて、道行く人は手を合わせて通るようになったンや。霊験あらたかで、悪さしたら、たたると言われてます。大事にしなはれや。
ほな、またお話しするわ。

池田町と木部の間隠れ里 摂津有馬の湯山権現

柳田国男の「山島民譚集」から北摂の民話を二話紹介します。   文は飯島正明
池田町と木部の間隠れ里
摂津豊能郡細川村大字木部と池田町との中間に一つの隠れ里があってな、この里に万福長者が住んでおったが、とうとう亡くなって、その跡があると「摂陽群談」に書かれておるんや。
その隠れ里の入口は洞穴やそうで、なんでも、その穴というのが古墳の横穴で、中に入ったら石の船がおいてあるんや。そこが竜宮の入り口やそうな。その船は石の棺桶やねんけど、竜のおるところまで行くそうな。そこへ行って打出小槌をもろうて帰って、長者になったというので、打出村という名はここから起こったといわれているんや。
長者は滅んでしもうて、もうだいぶ経ちますさかい、隠れ里もわからんようになってしもうたけど、その場所で物を拾うたら、その人は必ず幸せになるいうて、今も信じられてますんや。そこを見つけたかったら、地上に耳を伏せて聞いてみい、酒宴饗応のうらやましい音が聞こえるんや。隠れ里の音やそうな。今でもそういわれているで。
摂津有馬の湯山権現
阿波の領主三好修理太夫長慶の弟に勇猛果敢な十河一存(そごうかずまさ)という武士が痘瘡を煩ってな、有馬の湯に養生に来たんや。おとなしく湯につかっとればいいものを、具合の良くなった一存が有馬権現に馬で参詣に行こうとしたところ、みんなが「有馬権現様は馬を嫌ってはるから、馬に乗って行かん方がよろしいでしょう。やめときなはれ。」と止めるのを、おしてなぁ、立派な葦毛の馬に乗んなさって、ここの山を登りはったんや。ほなら案の定、途中で馬が何をきらったのか、馬が急に暴れだしてな、落馬しはったんや。国へ帰りはって程なく、病に伏せって亡くなりはった。1561年(永禄4年)の春24才の若さでしたなあ。
摂津有馬の湯山権現さんは、この山の地主神でな。むかし女人の姿になって、麓で遊んでおられた。
ある時、摂津守護なにがしがタカ狩りしてたんやが、この権現さんの姿を一目見たので、馬に乗って近づこうとしたら、どんどん山の奥へと入っていくので追いかけたところ、怪しく思い、矢をつがえて射なはったそうな。すると、その咎(とが)で、この武士は命を落としはったそうや。それで、この山に弓・矢・馬で入ったらな、必ず山が荒れて稲妻・雷があるといわれておるんや。

機織り姫と猪名津彦4

初音塚(現箕面市稲)は江戸時代の「山崎通分間延絵図」(文化4年)に描かれています。
都賀使主が429年に亡くなり辰の宮(今の瀬川神社の地)に祀られました。
反正大王(はんぜいおおきみ 倭王珍)は、猪名津(後の稲津)の港を経営して、為奈野を開いた二人の死を惜しまれ、二人に「猪名津彦」の名を勅諡(ちょくし)され、大明神とされました。その後、神社として猪名津彦神社が字平井に、為奈野神社が西稲に祀られました。
後に池田に穴織神社が祀られますと、この境内に猪名津彦神社が平井から移されました。
明治の神社統廃合でなくなりましたが、穴織神社・呉織神社などは残されています。池田市章には、この染殿の井の井桁紋が用いられています。
阿智使主が亡くなった年のこと、履仲大王(りちゅうてんのう 倭王讃)は阿智使主の業績を偲ばれ、弟媛(おとひめ)に百済の綾錦(あやにしき)を織るように命じられました。
弟媛はさっそく阿智使主が愛しておられた穴織姫・呉織姫らの協力を求め、彼女たちに任せようと思い、真っ白な絹糸を納めて荷とし、使いを送りました。 阿智使主はすでになく、墓は稲の使主邸跡に営まれ、阿智王塚と呼ばれていました。高津宮から船で猪名津(稲津)にやって来た弟媛の使いは、まず、むかし阿智使主にお世話になったので、この阿智王塚に参り、桑の木の広がる奈伊良野にある機御殿にやって来ました。
弟媛からの手紙には、この使いに吉祥日までに綾錦を織って献上させてほしいという事が書かれていました。そこには、王様のご命令なので、期日が定められているとも書かれていました。
寿命寺呉服姫2 穴織姫はすぐに呉織姫と力を合わせて、仕事に入りました。糸を染殿の井で洗い、美しい染め色に仕上げ、それぞれの色別に糸が絹掛けの松に干されて乾かせられ、糸巻にまかれていきました。
そしていよいよ、織殿で織り始められました。踏み木を踏むと紐で結ばれている綜絖(そうこう)が下がり、縦糸が上下に分かれ、その隙間に杼(ひ)で横糸を通します。筬(おさ)で横糸を縦糸にしっかり織り込みます。
パタパタコトン、パタパタコトン…この音こそが「ハタ織り」という名になったんや。
ところが、その日に限って織り上がりが思うように進まず、日も沈み、まだ織りあげることが出来ません。穴織姫・呉織姫は途方に暮れ、窓から見える星空をみつめていました。すると、急に空の星という星が満天に輝きだして、顔を明るく照らし始めました。「しとね戸を開けましょう。」と、二人は、この明るいうちに大急ぎで織ろうと、織殿のすべてのしとね戸を跳ねあげました。するとどうでしょう。星御門に諸星が天下って、そこから星くずのような光がしとね戸をくぐって、室内のあちこちをキラキラと照らし、輝き、まるで昼のように明るくなったのでした。こうして、期日に間に合うことができたのでした。 翌日、使いの者に昨夜の不思議な星明りが美しかったことを話しましたが、そんなことがあったとは、だれも知りませんでした。
これは、阿智使主が穴織姫・呉織姫の二人をとても愛しまれておられたので、助けられたのだといわれますが、今も星が降りて来たとされる所に星御門(建石町)が祀られています。
この場所は、阿智使主がお亡くなりになられた時、毎夜ここから光が発せられて、星明りよりも明るくなったといわれる場所です。
阿智使主がこの地を開かれた時、はるばる百済から犬養物部とともに連れてきて大切にされていた愛犬が死にました。
阿智使主は、七夕の牽牛(けんぎゅう)・織女の話を思い出され、草履を千足編んだ牽牛が、これを積み上げて天に登って行きましたが、あと一足作っていなかったため、天上に上がれません。その時、かわいがっていた犬も登ってついてきて、牽牛が困っているのを察し、最後の踏み台になってくれました。こうしてようやく天上に上がれた牽牛は、織姫に会うことが出来、また、犬は主の帰宅を待って死にます。この話を愛された阿智使主は、愛犬をしのばれ、墓を作ってやることにしました。その犬の墓だったといわれています。
主が亡くなった時に、それを待っていたかのように光がこの墓から毎夜放出され、都賀使主の住む竜の井がある辰御門(現瀬川神社)に達し、使主はびっくりしたといわれます。
すると、天から声がして、水底に伏している龍をお呼びになり、なんと、辰御門にある龍の井から、阿智使主を載せて、龍が勢いよく愛犬と共に天上に昇って、はるか北極星に向かって消えて行って、阿智使主は星になられていますのや…。
それで、かつての星御門を「星の宮」、辰御門を「辰の宮」と呼ばれたといいますのや。